菓子街道を歩く

ホーム > 菓子街道を歩くNo.128 山口

山口[中国路の武家物語]

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桜咲く一の坂川

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名菓舌鼓と山口の名物菓子ともなっているういろう。

 山口市は、かつて西の京と呼ばれ、文化の花咲く西日本一の都だったと聞いている。しかし、それは室町時代、明国(明時代の中国)と盛んに貿易をして大金持ちになった大内氏という領主が、山口にいたころの話である。四百五十年も前のことだ。
今、山口はひっそりと静かな町である。
旧市街は桜並木のある一の坂川に沿っている。さほど大きな川ではないが、ここが西の京と呼ばれた時代には、京都の堀川だか鴨川だかに比べられたようだ。橋の上からでも川底がはっきり見えるほど、澄んだ水が流れている。
山口の銀座通りともいうべき米屋町、中市町界隈の繁華街は、一の坂川の南側に、川と並行して伸びる落ち着いた感じのアーケード街だ。今回お訪ねした「名菓舌鼓」で名高い山陰堂の本店も、このアーケード街の中にある。木造瓦葺きの広い間口をもつ山陰堂は、白い漆喰をみせる店頭のたたずまいが美しい。

山陽路にある山陰堂

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瑠璃光寺五重塔(国宝)。嘉吉2年 ( 1442 ) 、大内盛見が兄大内義弘の菩提を弔うために建立した。

 「山口は山陽の古都なのに、なぜお店の名前は山陰堂なのでしょうか」
山陰堂で竹原文男社長、竹原茂副社長のご兄弟にお目にかかって、そんな話が出た。 思いがけず、山陰堂以前の竹原家の歴史をうかがうことになったのは、それがきっかけである。
山陰堂は、明治十六年の創業、現在の社長が六代目である。初代竹原彌太郎は士族の出で、この人が「名菓舌鼓」を考案した。
じつは彌太郎の父岩治郎正直のときまで、竹原家は津和野藩の食客という立場の武士で、平川という仮の姓を名乗っていた。なぜかというと、竹原家はもともと、現在の広島県竹原市の領主だったが、毛利氏と戦って領地を奪われた。そこで執拗な毛利の追及を逃れるため、名前を変えたのである。山陰の鳥取で身を寄せた反毛利の亀井氏が、徳川時代に津和野藩主になったのに伴い、平川(竹原)家もいっしょに移ってきたというわけだ。
明治を迎えるまで、何百年にもわたって仮の姓を名乗っていた――いかに中国路が、大内、尼子、毛利の争いの遺恨の深い土地であったかを物語る事実である。
竹原家の墓は、竹原市にも津和野町にもある。

総理大臣の一言

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湯田温泉は約800年の歴史を誇る山口の奥座敷。30軒あまりの宿が軒を連ね、土地の美味でもてなす。

 竹原家が、菓子屋を開くに当たって、津和野から、毛利よりも大内氏を慕う山口へ出たのは、やはりえにしというべきだろう。
彌太郎は、当然のことながら、商人になることをいさぎよしとしなかった。そういう彼を菓子屋にさせたのは、茶道に造詣の深かった母イシ、妻マツという女性の存在だったようである。イシやマツには茶席の菓子を手づから作る心得があった。文男社長によれば、「名菓舌鼓」の考案にも、マツが相当に関与しているのではないかという。
「名菓舌鼓」は、求肥まんじゅうの一種だが、時間がたっても皮が硬くならず、下に垂れないという、求肥の欠点を克服した画期的な銘菓である。しかも、求肥と中身の白餡のしっくりしていることは無類で、食べて求肥と白餡のさかい目がまったく感じられない。彌太郎ははじめ「舌鼓」と名づけたが、山口出身の総理大臣寺内正毅がこの菓子の味をほめ、「名菓舌鼓」にせよといったことから、今の名前になったというエピソードが伝えられている。

スポーツマン兄弟

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常栄寺庭園。大内政弘が文明年間 ( 1469〜87 ) 、雪舟に築かせたといわれる池泉回遊式庭園。イメージ

山口サビエル記念聖堂の内部。平成10年 ( 1998 ) 完成。外観は全体が三角錐の斬新なデザインの建築。

 現社長文男さんの父で、四代目にあたる竹原二郎は、東大法学部を卒業後、安田銀行(現富士銀行)に入り、コロンビア大学にも留学したという逸材だった。こういう人物が菓子屋を継ぐかどうかは、本人も周囲も悩んだうえでのことであったことはいうまでもない。
「おやじが山口で菓子屋を継がなければ、私たちもずっと東京で暮らしていたかもしれない。でも、私は山口で暮らせてよかったと思っています」
文男社長がそう語るそばで、茂副社長もうなずいている。文男さんは四男坊だが、兄の五代目社長竹原哲史氏が亡くなったために店を継いだ。茂さんは五男。お二人とも山口高校時代はサッカー選手で、全国大会にも出場している。今は、ゴルフ。山口で働き、この土地と人を愛している方々だ。

大内氏の夢の跡

 ところで、山口市の見どころは、ほとんどが室町時代の大内氏ゆかりの遺跡である。最も有名な瑠璃光寺の五重塔(国宝)はもちろん、常栄寺の雪舟庭園も、大内氏がつくらせたものだし、フランシスコ・サビエルに布教の許可を与え、ここにサビエルの名を残したのも大内氏だった。
お二人に案内していただいて、最初に訪ねたのが、常栄寺。かつて島根県益田市で二つの雪舟庭園を見たが、筆者の最も惹かれるのは、常栄寺庭園である。
考えてみれば、大内氏の庇護のもと、山口から津和野をへて益田へと旅をしていった雪舟の道は、そのまま竹原家が逆行してきた道でもある。
いつ見ても見事な瑠璃光寺の五重塔から、サビエル記念聖堂へ。サビエル記念聖堂は、平成三年の火災の後、以前とはまったく違うスタイルで新築されていた。聖堂の向かい側が小高い亀山公園で、山陰堂にはここにちなんだお菓子、「亀乃居」もある。
湯田温泉へ。山口市郊外に位置するこの名湯には、ここで生まれた詩人中原中也の記念館がある。
山陰堂湯田店で、先代が数寄をこらしたという茶室を見せていただいた後、湯田の割烹旅館「きむら」で食事をいただく。舌つづみをうちながら、山口の旅は湯田温泉で夜を迎えるのが定番である。

 

山陰堂本店

山口市中市町6-15 TEL:0839 ( 23 ) 3110

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竹原文男社長(左)と竹原茂副社長