菓子街道を歩く

ホーム > 菓子街道を歩くNo.125 鎌倉

 鎌倉[郷愁のモダンほのかに]

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鶴岡八幡宮。舞殿を手前に、上方本宮を望む。前身は平安時代、源頼義の創建だが、建久2年 ( 1191 ) 、現在地に改めて石清水八幡宮を勧請し、鶴岡八幡宮を創建したのは源頼朝。

住む人にそれぞれの町

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妙本寺。二天門から祖師堂を望む。文応元年 ( 1260 ) 、比企能本が比企一族と師である日 のために創建。

 何度鎌倉へでかけていても、由比ケ浜のほうへ出る機会がないと、鎌倉に海があるということを、すっかり忘れてしまったりする。
それがたまたま江ノ電で藤沢のほうからやってきて、電車が海すれすれに走るあたりで、ここがもう鎌倉だと言われるとびっくりする。
鎌倉と一口にいっても、じつにいろいろなところがあるのだ。狭いようで広い、というよりも、狭いところに、こころひかれ、足を止めたくなるようなところがたくさんあるのが鎌倉である。
そういう密度の高い町だから、外からでかけていく人には、それぞれの鎌倉がある。お寺の花めぐりが好きな人、あるいは北鎌倉の禅寺の雰囲気を愛する人、若宮大路、小町通りを駆け抜けるのに夢中の人もいれば、鎌倉の山歩きのついでに街を通るような人、由比ケ浜や材木座の海水浴を考える人、もっぱら文学散歩の人など。
ところが、この町に住んでいる人にとっては、もっと切実にそれぞれの鎌倉がある。今回の旅は、はからずも、そういう鎌倉に住む人にとってのこころの鎌倉を語っていただき、案内していただけるというまれな機会になった。

妙本寺で生まれた「きざはし」

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喫茶店「井川」のサンドイッチとコーヒー。

 鳩サブレーで知られる豊島屋の社長久保田雅彦さんは、3代目のご当主。この地で生まれ育った生粋の鎌倉っ子である。
久保田さんには、いろいろとお話をうかがった。その話そのものが、私たちにとってはいちいち新しい鎌倉体験だった。だが、話の内容についてはおいおいふれるとして、久保田さんのあとをのこのこと、ときには私たちもわがままを言いながらのんびりと歩いた、なんとも楽しい鎌倉散策をふり返ってみよう。
いざ鎌倉、ではないが、若宮大路に面したお城のように立派な豊島屋本店から出発した私たちは、南に下り、鎌倉郵便局の先を左に曲がった。ひょいと大きなお寺へ横あいから入るので、目的地はここかな、と思っていると、「ここはただの近道」と久保田さん。近道にされてしまったのは、日 の遺骨を納める本覚寺で、特色ある六角形の夷堂もある、なかなかの大寺だ。
目的地は本覚寺の前から東へ300メートルばかりも入った、妙本寺だった。老杉に囲まれて、森閑とした境内。じつは久保田さん、ここの本堂に当たる祖師堂を背にして二天門を額縁に見立てた景色、とりわけ緑の季節のそれをこよなく愛しているのだ。久保田さんは時折ふらりとここを訪れ、こころを休めたり、お菓子のアイデアをねったりするという。
「あそこの古い石段を見ていて、『きざはし』というお菓子を思いついたんです」
久保田さんが指さす先に、境内からさらに山に登ろうとする、摩滅して、苔むした石段が見える。あたりには、いたるところにシャガの花が咲いていた。
妙本寺は、北条時政に滅ぼされた鎌倉幕府の重臣比企一族の屋敷跡といわれ、一族の墓といわれるものもある。

鳩サブレーとモダン鎌倉

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鳩サブレー。小麦粉、バター、砂糖、鶏卵などを原料とする焼き菓子。形は創案時と基本的には同じ。

イメージ鳩サブレーの金型。焼き上げた後、サブレーを型からはずすときがむずかしい。

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きざはし。餅粉と和三盆糖をねりあわせた求肥に、こがしきなこをまぶした生菓子。

 妙本寺から、本覚寺の前まで戻って滑川を渡る。橋も小さければ川も小さいが、下を見ると澄んだ水を、何かの稚魚が隊列を組んでさかのぼっていた。鎌倉に川があるなんて考えもしないことである。橋のたもとに谷口屋というお米屋さん。和風の建物がよく、米の味わいを生かした菓子やおにぎりの味も評判だとか。
私たちは、橋を渡ってほどなく小町大路沿いにある「井川」で、おいしいサンドイッチを食べた。井川は、松竹大船のスターだった井川邦子さんが経営する喫茶店で、井川さんご自身がいつもカウンターで仕事をしている。
深い香りのコーヒーを飲みながら、久保田さんに鳩サブレーのお話をうかがった。「私の祖父で、豊島屋の初代は久次郎といいますが、明治30年頃、鎌倉の海浜院というホテルに滞在していた外国のかたから、ビスケットをもらったんですね。初代は日本の子どもたちに喜ばれる菓子はこれだ! と思った。それからたいへんな苦労をして試作を重ねたわけですが、まずまずのものができた頃、欧州航路から帰ったばかりの友人の船長さんが、『久さん、こいつはワシがフランスで食ったサブレーちゅう菓子に似とるゾ』と言った。そこから鳩サブレーという名前が生まれたんです。初代は初め、鳩のマークを鶴岡八幡の本殿の額の八の字が鳩の抱き合わせになっているところから取ったこともあり、八幡太郎式に『鳩三郎』と日本語の語呂に合わせるつもりだったらしいですね。でも、初めはぜんぜん売れなくて、近所に配って食べてもらっていた。ある日初代の奥さんが偶然、あげた鳩サブレーを近所の人が犬の餌にしているのを見てしまった、なんていう笑えない笑い話も残っています」
鎌倉は古都といっても遠い昔の話で、その後は長い間まったくの寒漁村と化していた。それが保養地として注目され、別荘ができ、サナトリウムができ、ホテルもできて、明治の中頃から鎌倉は息を吹き返したのである。そんな背景から、鳩サブレーも生まれたのだった。

懐かしい鎌倉がどこかにある

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鶴岡八幡宮齋館の日本庭園。

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鶴岡八幡宮で売られている鳩笛。

 小町大路をぶらぶらと、鶴岡八幡へ。途中、旧大佛次郎邸などにも寄る。鎌倉文士、鎌倉の画家の話がまた、久保田さんは体験的にくわしい。「久保田万太郎先生には、苗字が同じせいか、かわいがっていただきました」
そういえば、公開されている豊島屋本店の2階資料室で万太郎の俳句の色紙を見かけた。この資料室、世界のいろいろな鳩のコレクションも展示されている。
鶴岡八幡宮の齋館で、抹茶とお菓子をいただく。広縁をめぐらせた建物の南と西に山を借景にした美しい庭があり、南の庭先を源氏池付近を散策する人々がぞろぞろ通る。特別室めかして視界を遮らないところに、この大社のこころがみえて気分がよかった。
小町通りを、鏑木清方記念美術館などに寄りながら、豊島屋本店まで帰ってきた。小町通りは、平日にもかかわらず人通りが多い。歩きながら久保田雅彦さんがつぶやいた言葉が、印象に残っている。
「私は鎌倉が、もっとおしゃれをして歩くような町になってほしいですね」
いまは失われたモダン都市鎌倉が、久保田さんのこころの中には今も生きているのだろう。

株式会社豊島屋

鎌倉市小町2丁目11番9号 TEL:0467 ( 25 ) 0810

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若宮大路、二の鳥居付近にある豊島屋本店。

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豊島屋社長、久保田雅彦氏。