ホーム > 資料に見る和菓子 最終回 No.212
図1「江戸の華名物商人ひやうばん」(1815 年)虎屋文庫蔵 |
番付といえば、「相撲番付」を思い浮かべる方が多いでしょうか。力士を東西に分け、横綱から序の口まで一覧表にしたものです。江戸時代から続き、現在も行司の毛筆書きを縮小印刷しているといいますから、なかなか手間がかかっています。
江戸時代後期明治時代〜初期には、これを真似た「見立番付」が盛んに作られました。寺社仏閣や祭り、温泉、職人等、特定のテーマを取り上げて格付けするもので、変わったところでは、「不用競」といって不要なものを挙げ連ねた番付までありました。
図1は「名物商人」とありますが、江戸の食べ物屋を格付けしたもの。料亭、寿司屋、そば屋などが並ぶなかで、最高位の大関二店はいずれも菓子屋なのが興味を引かれるところです。
日本橋本町二丁目の鳥飼和泉は、饅頭で知られた店で、錦絵や双六にも描かれています(図2に見えるのは菓子を運ぶ容器の井籠を模した看板)。
本町一丁目の鈴木越後は羊羹で名高く、その味は「天下鳴(てんかになる)」ともいわれました(図3)。『賤のをだ巻』(一八〇二序)には、ある武士が昇進して先輩をもてなした際に、慣例の鈴木越後でなく金沢丹後の羊羹を出したところ見破られてしまい、土下座で謝ったという話もあります。
図2「江戸花見尽 隅田川」(1820年代頃) 虎屋文庫蔵 井籠の紋(向かい蝶)で鳥飼和泉のものとわかる。 |
図3「新板大江戸名物双六」〈部分〉(1852年) 東京都立中央図書館特別文庫室蔵 「鈴木やうかん」(鈴木越後の羊羹)とある。 |
ちなみに金沢丹後は、この番付でも格下の「小結」の扱いになっていますが、幕府御用もつとめた名店です。ほかにも餅屋や飴屋、煎餅屋の名前があり、どんな店だったのか、『江戸買物独案内』(一八二四)ほか同時代の史料から調べてみるのも楽しそうです。
よりテーマを絞ったものでは、江戸の汁粉屋の番付もあります(図4)。江戸時代後期の江戸は、「五歩に一楼、十歩に一閣、みな飲食の店ならずといふ事なし」(『一話一言』)といわれましたが、ここに載る汁粉屋だけでも百余りあるので、飲食店の数は推して知るべしです。
行司として別格扱いされている「小倉庵」は錦絵にもしばしば描かれた本所の高級料亭で、汁粉が特に有名でした(図5)。また、前頭に見える四ツ谷・蔵前の「船橋屋」は、浅草雷門で繁盛した菓子屋・船橋屋織江の支店の可能性があります*。
ほとんどが詳細不明で残念なところですが、当時は屋台店も多かったと考えられるので、店の入れ替わりも激しかったのかもしれません。眺めていると、番付をもとに食べ歩いたり、汁粉屋談義に花を咲かせたりする人々の姿が浮かびます。
図4「当時流行しるこ屋名寄」(江戸時代) 東京都立中央図書館特別文庫室蔵 |
図5「東都高名会席尽 梅の由兵衛」(1852年) 虎屋文庫蔵 上部に、小倉庵の堂々たる店構えが 見える。 |
小倉庵〈図5の上部拡大〉 | 昔も今も人気の汁粉。 |
*今村規子「二つの船橋屋織江」
(『和菓子』二十二号、虎屋、二〇一五年)参照。
深川に創業店の「船橋屋織江」があり、雷門の船橋屋はそこから分かれてできた店。
参考文献
石川英輔『大江戸番付づくし』
実業之日本社、二〇〇一年。
林英夫・青木美智男編『番付で読む江戸時代』柏書房、二〇〇三年。
河上 可央理(虎屋文庫 研究主事)
昭和48年(1973)に創設された、株式会社虎屋の資料室。虎屋歴代の古文書や古器物を収蔵するほか、和菓子に関する資料収集、調査研究を行い、機関誌『和菓子』の発行や展示の開催を通して、和菓子情報を発信しています。資料の閲覧機能はありませんが、お客様からのご質問にはできるだけお応えしています。HPで歴史上の人物と和菓子のコラムを連載中。今秋、2年ぶりの資料展「和菓子で楽しむ錦絵」展を開催。詳しくはP24をご覧ください。
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