吉野ケ里遺跡。昭和61年から3年間の発掘で発見された。弥生時代後期の環壕集落としては、これまでに発見された最大のもの。物見櫓跡、大規模な甕棺墓列などがある。佐賀県・神崎町。
撮影/中村善信
丸芳露
飛行機から見下ろした佐賀市付近の農地は、緑の絨毯を敷きつめたようだった。
麦畑である。
ビール用の大麦も多いというが、なかには、これから訪ねていくお菓子屋さん「北島」の、あの丸芳露の原料に使われる小麦も混じっているのかもしれない。ほどなくこの絨毯が黄金色に染まって、麦秋を迎え、次いでまた水田の早苗の若草色が、平野を覆いつくすのであろう。
一面の青麦のなかを、たっぷりと水をたたえて走る水路。あちこちに、ぽつんぽつんと立つ美しい若葉の楠。なんだか、この畑をたどって行くと、吉野ケ里遺跡の弥生人が、ひょっこり現れそうな景色である。そんな風景のなかを走って、静かな佐賀市街に入っていった。
佐賀といえば、「武士道といふは死ぬ事と見付たり」で始まる、峻烈な尚武の書『葉隠』を思い出す。だが、一方で佐賀は明治以降、大隈重信や江藤新平のような先覚者を数多く輩出し、ポルトガル伝来のハイカラなお菓子、マルボーロの佐賀版も生んでいる。
鍋島藩の閉鎖的な城下町だったようにみえる佐賀は、じつは、当時最も新しい情報の流れる、一本の道に貫かれていたのだ。古くから長崎・江戸間の往来として栄えた旧長崎街道である。
銘菓丸芳露で知られる「北島」の本店は、城下を東西に横切るその旧長崎街道と、城跡とJR佐賀駅を結ぶ現代のメインストリートとの交差点にある。店はまさに旧長崎街道に面していた。
与賀神社。楼門は室町期の建物。根元の太い肥前鳥居、石橋、石灯籠とも、江戸初・中期の古いものである。
「北島」の現社長香月孝さんは、十一代目、昭和三年生まれである。物腰も言葉もやわらかな、素敵な紳士だ。
元禄九年に小城藩の牛津から佐賀へ移ったとき、香月さんの先祖はまだ香月の姓をもたず、「北島」という屋号を名乗っていた。佐賀では数珠屋から出発、業域を広げて雑穀、荒物、呉服などを扱い、やがて貿易を手がけるようになる。宝暦年間、四代目のときに藩への貢献が認められて、香月の姓を許された。
丸芳露を始めたのは八代目、香月八郎の時代。「北島」の菓子屋創業もこのときとしている。ただし、実質的に丸芳露を作り上げたのは九代目の安次郎だった。
香月安次郎のことになると、孝さんの話に熱が入る。孝さんにとって祖父に当たるこの人は、銘菓丸芳露誕生のドラマそのものなのだ。
明治八年、安次郎は八歳のときに母を失ったが、あとには弟や妹が残され、折しも時代の変化で「北島」の商売も行き詰まっていたときであった。なにか新しいことを始めなければならない。菓子屋になったのは、小さな資本で始められるということだったのだろうか。まだ八歳の安次郎が父と共に、すでに佐賀でマルボーロを製造していた横尾家に製法を習いに通った。
横尾家から許されて、安次郎は近所向けにマルボーロを作った。兄思いの幼い弟や妹は、「お兄ちゃん、これおいしかよ」と言って、安次郎を励ました。
だが、教えてもらったとおりに作った最初のマルボーロは、堅かった。近所の人から、「北島のマルボーロは、うまかばってんが、八郎さんのごと堅か」と言われたという。安次郎の父香月八郎は堅物で知られていた。
大隈重信旧宅。早稲田大学の創立者としても知られる明治の政治家、大隈重信が生まれ、少年時代を過ごした生家。
佐賀城跡の鯱の門。江戸時代の佐賀城は、火災と佐賀の役によって焼失し、わずかに鯱の門だけを残している。
佐賀弁で子どものことを「こんぴーどん」という。安次郎は、マルボーロを、本当に「こんぴーどんが喜ぶごた(喜ぶような)」菓子にしなければならないと思った。
もともと新しいものを作りだすことに優れていた安次郎は、工夫に工夫を重ね、グルテンの高い山に近い土地でとれた粉とグルテンの低い海に近い土地でとれた粉を配合し、焼く前の生地に胡麻油を塗るという画期的な方法をあみだした。この改良によってマルボーロの品質は一変し、やわらかくて、サックリと歯ごたえがあり、サラリと溶ける、今日の丸芳露のデリケートな味の基本が生まれたのである。
こうした安次郎の苦心を語った後、孝さんは「こんぴーどんが喜ぶごた、というのは、商品開発の原点だと思います」と、付け加えた。
旧長崎街道の石像恵比寿。佐賀の市街地だけでも、旧道沿いに10体くらいはあり、時代は新旧さまざま。写真のものは寛政5年 ( 1793 ) 造立。
孝さん自身は大阪大学を卒業して父善次を継いだ。善次は厳しい人だったが、京都の二楽庵堀内嘉広、山口の大谷琢亮といった優秀な技術者を招いて指導を仰ぎ、「北島」の丸芳露以外の菓子作りの基礎をつくっている。
二楽庵との出会いは、佐賀の高等学校時代に、学校に講演に来た高木市之助博士の話に二楽庵のことが出てきたのを孝さんが聞き、父に知らせたのがきっかけだった。
そうしたこともあって、孝さんは、父からはもちろん、二楽庵や大谷琢亮という名人の薫陶を受けて菓子の修業をしてきたのである。
とてもこの短文では書き切れないお話をうかがいながら、西日が色づくころ、孝さんに佐賀の名所を案内していただいた。
肥前鳥居と石橋の見事な与賀神社、鍋島家と龍造寺家の墓がずらりと並ぶ高伝寺。それに、孝さんの思い出のなかの旧長崎街道沿の町並みである。孝さんは「変わってしまいましたね」を繰り返されたが、私たちにとって珍しかったのは、旧長崎街道沿に沿って、百メートルか二百メートルおきくらいに、石像の恵比寿さまが石仏のように祀られていたことである。
締めくくりは、ニューオータニ佐賀の「楠」で有明海の珍味をいただいた。「ムツゴロウといふは食べるものと見つけたり」である。
佐賀市白山2-2-5 TEL:0952 ( 26 ) 4161
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香月孝社長 |