菓子街道を歩く

ホーム > 菓子街道を歩くNo.131 金沢

 金沢[甘味をめぐる古今人物誌]

マップ

ひがし茶屋街。浅野川の東側、卯辰山の山麓一帯で、紅殻格子の茶屋の街並みと、50を超す寺社が集まる区域。金沢の情趣を色濃く残している。

犀川を渡るとき

 金沢駅前からタクシーで南へまっしぐら。犀川を渡る。河床を二筋に分かれて流れる水は、豊かとはいえない。
「ダムができるまでは、水がたっぷりあったんですけどね。いい川でしたよ。雨のあとなんか、怖いくらいでした」
 と、運転手さん。
 かつての犀川の風景がまざまざと見えてくる。いい人がいるな、さすがは金沢だ。
 ちらりと見えた河畔の桜並木は、ねじれたような老木ぞろい。室生犀星の、あの独得の風貌が思い浮かぶ。

木の葉の柴舟

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銘菓「柴舟」(柴舟小出)。生姜の香り、くせになる風味。

 金沢市横川の柴舟小出本社に着いた。JR西金沢駅に近いところである。
 初代小出定吉が野町に菓子製造の店を開業したのが、大正11年。これを継いだ2代弘夫が優れた人物で、今日の柴舟小出を築いた。昭和25年、昔からあった加賀の菓子、柴舟に独自の改良を加えて売る。
 柴舟は、小麦粉生地の煎餅に砂糖と生姜の摺り蜜をつけ、乾燥させる。ただ、従来の柴舟は、砂糖が高価なために飴を使い、蜜をつける際もどぶ漬けだったのを、弘夫は損をしても白砂糖を使い、蜜は何倍も手間をかけて1枚1枚刷毛で塗った。
 俳人の中村汀女は、弘夫の「柴舟」を「木の葉になぞらえた煎餅に、見事な白砂糖の化粧引。口にふくむと強い生姜の味が花のようにひろがって、砂糖にとけ合い、そして霧散する」と『婦人朝日』で絶賛した。
 現在の社長は3代目の進さん。昭和24年生まれ。弘夫の遺産を、時代に合わせて充実させてきた。蒸しカステラの「山野草」などの傑作がある。

菓子道起き上がり

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銘菓「愛香菓」(浦田甘陽堂)。溶けて、シナモンの名残。洋風和菓子。

 旧市街の方に引き返し、御影町の浦田甘陽堂へ。
 浦田甘陽堂は、先代の浦田一が昭和11年に創業した。金沢のパン屋で修業後、28歳で独立。ゼロからの出発だったが次第に軌道に乗せ、戦後はパン屋から土産菓子を扱う店に転換していった。
 昭和36年に2代目の浦田一郎が新潟で修業して帰ってきた。2年後には全商品を自家製とし、和菓子専門店となる。事業は順調に伸びていった。ところが昭和40年、隣家の火災から新工場が全焼するという試練に遭遇する。
「もう一度、父親の笑顔が見たい。土壇場の今こそ頑張りどころ」と奮い立った一郎さんは、巨額の借金に苦しみながらも、「安くて、おいしく、品質のよい大衆菓子」をモットーに、顧客本位の経営に徹して成功した。浦田を、金沢有数の店に育てたのである。
「自分は初代の後で3代目の前、と思ったとき楽になった」と言う一郎さん。3代目の若い東一さんとともに、「愛香菓」などに代表される新しい菓子作りに取り組んでいる。

最高の材料を守る

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武家屋敷跡。香林坊の西、鞍月用水と大野庄用水にはさまれた長町界隈で、中級武士の屋敷が多かったといわれるところ。

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銘菓「長生殿」(森八)。味と口解けの秘密は、素材のよさ。

 森八の店名と、干菓子「長生殿」を知らない人は少ないだろう。
 森八の本店は、金沢で最も古い商人の町、尾張町にある。寛永年間の創業で、現在の社長中宮嘉裕さんが18代目。375年も続いた老舗である。
 18代の女将、中宮紀伊子さんに話をうかがった。紀伊子さん、意外にも、東京は下町の生まれ。
「金沢では、関東のように緑茶は飲まないんです。棒茶という、ほうじ茶を飲むんですね。でも、抹茶は普段から仰々しい点前などなしに、自分でたてて、よく飲みますよ」
 抹茶に合う「長生殿」が生き続ける所以である。
 「長生殿」の創案には小堀遠州もかかわり、表面に刻まれた「長生殿」の文字は、遠州のデザインだ。今見ても、モダンで、いい文字である。
 材料は、初めからずっと阿波徳島の和三盆、紅色は山形県最上の紅花。特色は、最高の材料をひたすら守ってきたこと。
 ただ、変化もあり、20数年前に、それまでは注文生産品であった小型の「長生殿中墨」を発売したところ、食べやすさで当たった。18代目の大ヒット作である。
 和菓子の世界だけでも、これだけの歴史、これだけの人物。金沢の奥深さに打たれつつ浅野川を渡って、夕暮れになった。

柴舟小出

金沢市横川7の2の4 TEL:076 (241) 1454

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浦田甘陽堂

金沢市御影町21の14 TEL:076 (243) 1719

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森八

金沢市大手町10-15 TEL:076 (262) 6251

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