菓子街道を歩く

ホーム > 菓子街道を歩くNo.133 岡山

岡山・吉備路[鬼のいない桃太郎の旅]

マップ

岡山、おおらか

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後楽園と岡山城。岡山藩主池田綱政が貞享4年(1687)から元禄13年(1700)まで、14年間かかって完成した林泉回遊式の庭園。後楽園と呼ばれるようになったのは、明治4年 (1871)以降。岡山城は池田家31万5千石の居城で、烏城とも呼ばれた。天守閣は昭和41年の再建。

 岡山という土地には、明るくおおらかな印象がある。
 今回、吉備団子の廣榮堂を訪ねて岡山に行き、やはりそういう印象を受けた。市街の東側を大きく流れている旭川の岸に立っただけで、ああ、やっぱり岡山だなと思う。
 ともあれ、後楽園に向かう。
日本3名園の一つ。ここがまた、広々、ゆったりした庭で、
景観を見せよう見せようとするせせこましさがない。池のまわりなどには、惜しげもなく広い芝生のスペースがとってある。それでいて、歩いてみると、茶亭あり、中国趣味の見せ場あり、なかなか変化に富んでいるのだ。
 夏は蓮の花もあり、流店に涼むのもよい。流店とは、流水をはさんで対座し、盃を流して詩を詠むための亭舎。7月には井田(中国古代の田租法を試みた田)で、お田植え祭りも行われる。公園では、どこからでも烏城の雅称をもつ岡山城が見えた。
 吉備団子の元祖・廣榮堂は、後楽園の下流500mばかりの京橋を東に渡った、中納言町にある。町名の由来は、小早川秀秋の通称・金吾中納言。店は旧山陽道に面して、古風な、老舗の構えをみせていた。

桃太郎になった初代

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廣榮堂の吉備団子。右は「むかし吉備団子」、左は「元祖きびだんご」「海塩入りきびだんご」「黒糖きびだんご」の3種セットで、パッケージデザインは五味太郎さん。

 廣榮堂の現社長・武田修一さんは昭和6年生まれ、4代目に当たる。武田さんが語る初代の話。
 創業は安政3年(1856)、初代は武田浅次郎である。
 明治18年、明治天皇が岡山へ行幸された折、浅次郎は吉備団子を献上し、「日の本にふたつとあらぬ吉備団子むべ味いに名を得しや是」という御製を賜っている。浅次郎はこの頃、きび主体の生地を求肥に変えて、今日の吉備団子に近いものを完成させていたようである。
 明治24年、山陽鉄道開通時に岡山駅での立ち売りで成功したのも大きかったが、次の逸話は浅次郎の面目躍如たるものがある。
 明治27・28年、浅次郎は日清戦争の凱旋で湧きかえる軍都・広島に乗り込み、なんと自ら桃太郎に扮し、「日本一吉備団子」の大幟を片手に、「鬼が島を征伐した桃太郎の皆さん、国への土産は岡山駅の吉備団子を」と大宣伝を展開した。岡山名物吉備団子が全国に知られたのは、この時からだといわれている。

やさしくて強い

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吉備路文学館。昭和61年の開館。岡山の生んだ近代の文学者の資料を展示している。特に正宗白鳥、内田百 、井伏鱒二、坪田譲治などに関する資料が充実している。

 岡山では、人の気風もまた、おだやかで、優しい。だが、表面からだけでははかり知れないところがある。行動力も粘り強さもあるのだ。
 そんなことを考えつつ、武田修一さんに連れられて訪ねたのが、岡山駅の北にある吉備路文学館。まず玄関前で目を奪われたのが、折しも満開だったうこん桜。これは、黄金色に咲き、散るときはピンクという珍しい桜である。
 正宗白鳥、井伏鱒二、坪田譲治、木山捷平、岡山出身の文学者はずいぶんいる。竹久夢二も岡山の人だが、やはり岡山人の本質は優しさかな、と思う。優しいために、時に偏屈だったり、辛辣だったりする。
 内田百間しかり。天才的なユーモアを隠した、気むずかしげな顔。きっと百間さんも優しかったのだ。
 百間が廣榮堂の吉備団子を夏目漱石に送ったことがある。
吉備団子は経木を格子に組んで折に詰めてあったが、なにせやわらかい。「岡山名物吉備團子を夏目漱石先生に贈ったところ、請けとったと云ふお禮の手紙を戴き、その中に、團子は丸いとばかり思ってゐたが、吉備團子は四角いのだねとあった。経木の棧の格子の中で四角くなってしまったのである」。有名な逸話だ。

新たなる「創業」

 昭和37年、武田修一さんは大学を卒業して、銀行に勤めていた。ところが、そういう時期に、廣榮堂は深刻な経営危機に陥った。戦中戦後の打撃に加え、修一さんの父、3代目の早逝が原因である。もう店をたたむしかないと言われ、修一さんは銀行をやめて岡山に戻った。
 当初、店での現金売り上げ1日1万円をめざした修一さんは、1万円売れなければ夜になっても店を閉めなかった。あと500円が売れないと、「どうかあと500円売らせてください」と、通りに出て、手を合わせて拝んだという。
 通りかかった酔っ払いが怪しんで、「お前、なにやっているんだ」。    
 結局、その人が500円分買ってくれたりする。 
 現在の廣榮堂は昭和37年に改めて創業し、大きく成長したといってもよい。平成7年の阪神大震災直後、修一さんは1400食の汁粉を神戸に運び込み、何度も被災者に振る舞った。そんなところにも、新しい経営の考え方が顔を出している。 
  めざすお菓子は、「絶対に安全で、健康的で、クリーンな菓子」。今年完成した廣榮堂の新工場は、無菌化、無人化を徹底して、「安全」を最優先したものだ。

吉備路、古代の夢

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吉備津神社。古代に起源をもつ日本有数の古社。入母屋を2つ並べた吉備津造はこの社の特色で、足利義満の造営になる現在の本殿・拝殿は、いずれも国宝。本殿の西斜面に300mにわたって続く美しい回廊も名高い。

 翌日、私たちは武田さんと一緒に岡山市街を出て、吉備路へ向かった。
 最初に訪ねた吉備津神社は、古代吉備国の謎を秘めた古社である。拝殿、本殿の入母屋造を横にまわって見た瞬間は、感動的だった。神さびた美しさとは、こういうものをいうのであろうか。吉備団子も、もとはここに備えられた供物であったという。
 本殿西側の長い回廊を歩き、御釜殿で「鳴釜の神事」の説明を聞いたのも印象深かかった。釜の鳴る音で吉凶を占うとか。なにやら恐ろしい。
 だが、吉備路のおだやかな景色は、そんなおどろおどろしい「鳴釜」も、明るく包み込んでしまう。
 次に訪ねた備中国分寺は、五重塔を中心に花咲く田野が広がり、ふと大和の飛鳥あたりを歩いているような錯覚に陥るほどであった。
 吉備路はまだまだ続くが、私たちはここから引き返した。さて、誰が桃太郎やら家来やらわからぬ一行、岡山に戻って瀬戸内の海の幸を「うまいうまい」と頬張り、ちっとも鬼に出会わない旅を終わったとさ。

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御釜殿と鳴釜の神事。吉備津神社本殿の回廊の途中にある。黒光りした御釜殿の内部で釜を炊き、釜の鳴る音によって吉凶を占う。上田秋成の『雨月物語』に出てくることでも有名。
 イメージ 岡山の寿司。ご当地名物「ままかり」をはじめ、いずれも瀬戸内海の美味。 イメージ 備中国分寺。天平13年(741)、聖武天皇によって各国に置かれた国分寺の一つ。古代の建物は兵火その他で失われ、現在の建物はすべて江戸時代のもの。五重塔は文政4年から15年にかけて藩主蒔田氏が再建、国指定の重文である

廣榮堂

岡山市中納言町7−23 TEL:086 (272) 2268

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廣榮堂本店。
中納言は廣榮堂創業の地。

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廣榮堂倉敷店。
美観地区の一角にある。