名古屋城。金の鯱をもつ名古屋の象徴として親しまれてきた城。徳川家康の命で、慶長17年(1612)に天守閣が完成した。築城には旧豊臣の家臣だけが当てられ、とくに加藤清正が活躍したことが知られる。戦災で焼失、昭和34年に天守閣が再建された。
名古屋は戦災で市街のほとんどを焼失し、戦後、新しい都市計画によって蘇った町である。だが、それでも、江戸時代の城下の原形はどこかに残っているようだ。現在の中区、名古屋城から熱田神宮(宮の熱田)にかけての帯状の地域は、栄を中心に繁華街の集中するところだが、昔も商家が軒を並べる目抜き通りだった。
なぜ城と宮の熱田かといえば、皇室、武家から篤く崇敬された熱田神宮の門前は、宮の宿と呼ばれ、東海道の宿場町でもあったからである。東海道の旅人は、宮の宿と桑名の間は「七里の渡し」を船で往来したが、名古屋へは、宮の宿が入口になつていた。
今でも、東照宮、東西両本願寺などの社寺が、この南北に延びる街の中にあるのも、ここが名古屋の城下街の原形であった名残である。名古屋の「浅草」と呼ばれる大須観音界隈には、都市の庶民の歓楽の匂いがあり、万松寺などもどこか華やぎのある寺だ。
名古屋テレビ塔。昭和29年に建設された、日本で初めての電波塔と展望台を併せもつ塔で、地上180メートル。近代都市名古屋の象徴である。
城と宮の熱田を結ぶ地域を南北に走る大通りには、西の伏見通り、東の大津通りなどがあるが、江戸時代に最もにぎわったのは真ん中の本町通りである。
名古屋一古いお菓子屋さん、両口屋是清の本店は、その本町通りから東へ、杉の町通りを入った左側、丸の内3丁目にある。戦前までは本町通りに面して建っていた。
両口屋是清は寛永11年(1634)創業、ざっと370年の歴史をもっている。初代猿屋三郎右衛門は大坂から名古屋に移り、饅頭屋を開業。評判を得て、尾張藩2代藩主徳川光友公から、両口屋是清の看板をいただいた。以来、現在の社長大島規よ志さん(昭和11年生まれ・「よ」はにんべんに予という字)まで 12代を数える。
両口屋是清の銘菓として知られているものの多くは、昭和9年に社長に就任した11代大島清治の時代に生まれた。
千成り瓢箪の焼き印が特色のどら焼き「千なり」、可憐な干菓子「二人静」(ににんしずか)、大納言小豆を用いた「をちこち」など、いずれも風雅なお菓子である。
御三家ながら目立たないことで安泰だった尾張藩では、城下にもその知恵が行き渡っていたのか、両口屋是清も、明治・大正までは秘めていた底力を、昭和になって見せたというところであろうか。
両口屋是清は多くの菓子を作っているが、「よも山」「旅まくら」「志なの路」などの焼き菓子に特色がある。
とりわけ「旅まくら」は、小形ながら、非常に味に深みのある茶通だ。これは昭和25年の愛知国体で天皇が名古屋に行幸された際の献上菓子で、菓銘は茶の湯の花生け「旅枕」の形からとられている。御旅行中の天皇をお慰めする菓子に「旅まくら」とは、にくい命名だ。
大島さんは、全国130余か所に展開する店舗を支えながら、新しい時代への対応にも余念がない。また、名古屋は「茶どころ」とも言われ、茶会用の季節の生菓子にも力を入れている。
「名古屋のお土産のお菓子は、重いものが多かったんです。舌にも重いし、実際に目方もある。そこで、少し工夫したカステラ生地に紅色の羽二重餅をはさんで、紅茶やコーヒーにも合うお菓子を作ってみました」
それが「紅の花」。名古屋に欠けているもの、という発想に、大島さんの名古屋での枢要の位置が表れている。
大須観音。正式には宝生院だが、名古屋市民に「大須の観音さん」として親しまれてきた寺。参道は浅草の仲見世を思わせる。
伏見通りの西側、丸の内1丁目には、「上り羊羮」で知られるお菓子屋さん、美濃忠の本店がある。両口屋是清の大島さんとも親しかった美濃忠5代目の伊藤健一さんは、昨年、惜しくも62歳で早逝された。今は、夫人の伊藤好子さんが当主である。
かつて名古屋に、桔梗屋という慶長創業の古い菓子屋があった。美濃忠はその桔梗屋で働いていた伊藤忠兵衛が、安政元年(1854)に独立した店である。忠兵衛は桔梗屋が店を閉めたあと、桔梗屋特製の「上り羊羮」を復興した。
この「上り羊羮」は、羊羮中の逸品である。時間と手間をかけて作る蒸し羊羮で、4日ほどしか日持ちしないが、やわらかく、舌にとろける上品な味は、一般の羊羮の概念とはかなり違うものだ。
「上り羊羮」は傷みやすい夏場を避け、9月10日から5月25日まで販売される。ほかに、この羊羮のバリエーションで、淡いピンクの「初かつを」があり、こちらの販売はもっと季節限定で、2月10日から5月25日まで。
美濃忠は、現在の場所で「上り羊羮」を主力に手堅い菓子作りをしてきたが、健一さんが、夫人と力を合わせて一気に経営を拡大した。門構えと大きな軒灯をもつ本店社屋、総合和菓子店としての品揃え、名古屋10か所での店舗展開は、いずれも5代目の事業である。
5代目夫妻が創製してヒットした銘菓に、ほっこりした黄味餡が特徴の紅白の饅頭「雪花の舞」がある。
「夫は健康を顧みずに働きました。それが残念でなりませんが、私はこれから、健康に良い菓子ということを考えて参りたいと思っています」
そう語る伊藤好子さんは、健一さんの没後、くるみ、渋皮栗、ごま、だったんそばなどを材料に、チョコレート菓子「おたいくつ」を作った。「おたいくつ」とは、武士が素読などに励んでいる時、奥方がお茶をいれて夫にかける言葉、「おたいくつしましょう」からとられたもの。まさに、好子さんが亡き健一さんを思う心そのものである。
岡崎城。元亀元年(1570)、家康が浜松に移るまで、徳川家の本城があったことで知られる。江戸時代の岡崎は5万石。代々、徳川譜代大名の居城となった。
真福寺。聖徳太子の時代前後に物部真福によって創建されたといわれる三河最古の寺。境内の杉と竹林の道は、嵯峨野を思わせる。
旧藤川宿の松並木。藤川は、岡崎より一つ江戸寄りの東海道の宿場。松並木が残っている。
名古屋から40キロ南東に、岡崎の町がある。JRや名鉄でも約30分の距離だ。
徳川家康ゆかりの岡崎では代々の城主が徳川譜代として幕閣に参与したが、東海道要所の城下町であり、街道の宿場町としても繁栄した。
その岡崎に、備前屋の「あわ雪」という菓子がある。江戸時代の街道茶屋の名物「あわ雪豆腐」にちなむ菓子で、現在は岡崎の代表銘菓になっている。
「あわ雪豆腐」は、古書にも「其製潔清風味淡薄にして趣あり」とあり、「東海道往来の貴族賢輩といえども必ず輿を止めて賞味したもう」とあるように、当時、大評判であったことが推測できる。形状は茶碗を伏せたような半円型で、上にあんかけ(葛にたまり醤油で味付け)したものだ。銘菓「あわ雪」は、明治になり、備前屋の3代目当主が消えていく宿場名物を惜しんで創製したものである。
備前屋は天明2年(1782)の創業、天保9年の町並み図を見ると、店の間口が5間とあり、宿場の中ほどにあって、かなりの繁盛店だったことがわかる。
現在の当主は、8代目の中野敏雄さん(昭和8年生まれ)。菓子の歴史・郷土史などに興味を持ち、古文書等の収集、著作、講演等を行いながら、商売関連の趣味としている。当然、発案創作する菓子にも歴史研究が反映し、古実にちなむ菓子の商標登録は70件にも及んでいる。
代表銘菓「あわ雪」、薄焼き煎餅で大福をはさんだ東海道の幕府公印「駒牽朱印」、三河最古の名刹にちなむ、白玉に漉し餡をからめた「真福もち」、果実を3重包餡した「非時香菓」、小豆餡をパイ生地で包んだ「手風琴のしらべ」などなど。菓子の修業で名古屋で若き日を過ごした中野さんには自ら菓子のイメージを作り出せる強みがある。
また、菓子の展開も見事だ。 代表銘菓「あわ雪」は、「あわ雪豆腐」、「玉ゆき」、「あわ雪茶屋」、「雪まろげ」、「杣みちの雪」、「山里の雪」などに展開。一つの菓子を縦横に使いこなし、それぞれ特徴のある菓子を複数演出している。
これだけ郷土の歴史に愛着をもち、それを製品作りのベースにしてきたお菓子屋さんも少ないだろう。
東京まで旧東海道をたどって帰りたくなったが、そういうわけにもいかず、東岡崎駅から名鉄に乗り込んだ。
名古屋市天白区八事天道302 TEL 0120-052062
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春の生菓子。お菓子のなかに菜の花と桜の花が咲いているような、華やかな春の生菓子。 | 旅まくら、志なの路、よも山。皮が玉子味の「志なの路」と「よも山」、ごまの風味をきかせた茶通「旅まくら」、いずれも深い味わいの焼き菓子である。 |
名古屋市中区丸の内1-5-31 TEL 052-231-3904 FAX 052-231-1804
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![]() おたいくつ。くるみ、渋皮栗、ごま、だったんそばなど、体に優しい素材で作ったチョコレート菓子。 |
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![]() 初かつを。上質の葛をふんだんに使った、淡桃色の蒸し羊羮。春季限定発売。 |
岡崎市伝馬通2-17 TEL 0564-22-0234 FAX 0564-25-1829
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