菓子街道を歩く

ホーム > 菓子街道を歩くNo.150 東京・赤坂

東京 赤坂[味の魅力は残る]

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変わるセレブの街

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日枝神社。もと江戸城内にあったものを、明暦の大火以後、現在地に移した。歴代将軍家の産土神として崇敬のあつい、江戸第一の大社。西暦偶数年に行われる、ご神幸の行列が皇居を一周する山王まつりは有名。

 東京に住んでいながら、久しぶりに赤坂を訪ねて、浦島太郎になったような気分になった。一ツ木通りあたりも、以前よく行っていた店が、おおかた姿を消している。
 赤坂という街は、複雑な性格をもっている。北で赤坂御用地と接する上品な山の手の一角だが、西に国会議事堂を中心とする国政の府があるために、付近に高級ホテルや料亭が発達し、政治の裏舞台ともなった。東京放送(TBS)が、芸能の要素を持ち込んでもいる。そうした背景が、東京の他の繁華街とはひと味違う赤坂の雰囲気をつくってきた。
 だから、筆者の若い頃、赤坂に出かけるということは、セレブな、大人の遊びの匂いに触れに行くことであった。一ツ木通りのダウンタウンブギウギハウスを覗き、TBS会館の地下でお茶を飲むくらいのことだったが、夜ともなればそこら中で政治家や利権屋の危険なゲームがくりひろげられるのだろうと、眠そうな昼の田町通りあたりを歩きながら想像したものである。 
 今回出かけてみた赤坂は、ずいぶん変わっていた。しかも、ここ数年でさらに大きく変貌していくのだという。

東京のとらや

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かつては夜の国会ともいわれ、料亭街として栄えた赤坂の街で、今、街の表情を一変させる大規模な開発が行われている。新しい街は、どんな個性をもった街になっていくのだろう。

 変わる赤坂で変わらないものの一つが、青山通りの坂を上って、左手に見えてくる真っ白な、とらやの暖簾である。ほっとする白さと墨文字だ。 
 とらやの歴史をひもとくのも今さらめくが、現在では間違いなく日本最古のお菓子屋さんの一つであり、代々御所の御用を勤めてきたことから、明治天皇の東京遷都の時、京都の店はそのままに東京にも店を出した。ところが、とらやは東京生まれのお菓子屋さんだと思っている人が、東京にはまだいる。
 そう思われること自体、京都文化の伝統の中で育ったこの店が、関東の地でいかに成功したかということの証しである。東京で神田ほかを移転して、赤坂に定着したのは明治12年である。 
 とらやの創業は室町末期の1520年代と考えられるが、慶長5年(1600)の記録に店名が登場することから、当時の店主、黒川円仲を初代としている。黒川円仲という人物は、関ヶ原戦で敗れた犬山城主をかくまったというのだから、ただのお菓子屋ではなかった。千利休などがそうであったように、桃山期の豪胆な商人の一人だったのだろう。
 現在の当主は17代目の黒川光博さん。昭和18年(1943)生まれ、平成3年(1991)に社長に就任した。

裾野を広げる

 とらやは鎌倉時代に禅僧によって中国から伝えられた饅頭(酒饅頭)の製法を受け継いでおり、この店の有名なお菓子は饅頭であった。しかし、東京でとらやといえば、手みやげの最高級品として、羊羮が知られている。
 とらやのような店はあらゆる上菓子を作るし、店頭では売らない特注の菓子も作る。だが、季節ごとに桜餅も売れば柏餅も用意し、皇室御用達の看板を掲げながら、和菓子を支える大衆を軽視しなかった。それが羊羮好きの関東人が誇りとする「夜の梅」「おもかげ」のような羊羮の名作を育てたのである。
 和菓子の裾野を広げるというとらやの不断の努力は、パリやニューヨークへの出店にもあらわれている。ニューヨーク店は閉めたが、パリ店は今年25周年を迎えて、盛況だ。黒川光博社長は、「日本の文化の香りのある高品質の和菓子を、感謝の気持ちを込めたサービスで届ける」ことをモットーとしている。
 赤坂の店の地下には、喫茶「虎屋菓寮」があって、心地よい和菓子のひとときが楽しめる。

「赤坂もち」誕生

 赤坂には、丸の内線・銀座線の赤坂見附駅と千代田線の赤坂駅という、二つの地下鉄駅がある。TBS会館の横にあるのが、赤坂駅だ。
 外堀通りから、この赤坂駅を経て、乃木坂へと通じている赤坂通りは、独特の雰囲気をもっている。青山通りがクルマのための道なら、こちらは人が歩くための道に近い。この道を歩くのが好きだったから、赤坂通り沿いの赤坂青野は、よく知っていた。
 それで今回、旧知を訪ねる気分で取材にうかがったが、店に入るのは初めて。お目にかかった5代目の青野啓樹さんは、昭和45年生まれの、若い、元気な社長だった。
 赤坂青野のご先祖は江戸時代、神田明神の横で「青野屋」を称して飴屋をしていたという。明治になって、初代の亀吉が五反田で菓子屋を開店する。東五反田には島津藩や岡山池田藩の下屋敷があった。赤坂に出たのが、明治32年(1899)、2代目一三太郎の時。3代目の鑑次郎が「赤坂もち」を考案した。
 クルミと黒糖で味つけした餅に、たっぷりときな粉をからめ、容器に入れたうえで、小風呂敷に包んであるのが、「赤坂もち」である。赤坂の料亭などでも盛んに使われ、赤坂の名物になった。

昔の菓子屋に

 5年前に4代目の啓太郎が急逝して、啓樹さんは29歳で店を継いだ。その際、かなりの経営危機を乗り切らなければならなかったようである。 
啓樹さんには、そこを乗り切った自信と、これからいろいろなことをやってみたいという意欲がみなぎっていた。
 しかし、「機械だけでなく、一度職人の手を経てこそ和菓子」「お客様に店に来ていただけるような菓子屋に」という家訓は忘れてはいない。
 だから、インターネット販売なども好調だが、「インターネットのお客様の中から、一人でもお店に来ていただける方が生まれたらもっと嬉しい」と言う。
 「黒べい」など店に伝わる菓子のリニューアルにも熱心に取り組み、短い期間に、漉し餡を求肥で包んだ新商品「ほんの喜もち」も開発した。いずれも赤坂の街が大事にしてきた“粋”を感じさせる銘菓である。
 「ほんとうは、昔の赤坂のふつうの菓子屋に戻りたい、という思いもあります」
 最後にポツリともらしたひとことが、印象的だった。

とらや (赤坂店)

東京都港区赤坂4−9−22 FreeDial 0120(45)4121 FAX 0120(77)3250

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小倉羊羮の「夜の梅」と黒砂糖羊羮の「おもかげ」。「夜の梅」には、闇の中に浮き出す梅の花のように、小豆の粒が点じられている。菓銘に情趣があり、竹皮包みがゆかしい。

赤坂青野

東京都港区赤坂7−11−9 TEL 03(3585)0002 FAX 03(3589)0050

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    赤坂もち。ふわっときな粉の香り。あっさりとした上品な甘さは江戸の味。   栗饅頭。蜜でじっくり煮ふくめた栗を丸ごと一つぶ白餡で包み、焼き上げた。