旧東海道の宿場町を残したというべきか、蘇らせたというべきか、三重県の関(亀山市関町)の町並みには驚くばかりである。
道幅も旧街道そのまま、東の追分と西の追分の間1・8キロの通りに、宿場の建物が見事に並ぶ。古いままの家、修復したものさまざまだが、場違いな家は一軒も見当たらない。しかも、日用品の商店もあり、多くは人の暮らす住まいだから街が生きていた。
ところどころに、さりげない見どころスポット。代表的な旅籠だった玉屋や、関宿の典型的な町家の内部が公開されている。町並みを見下ろせる眺関亭もあれば、地蔵院の愛染堂(重要文化財)も見ものだ。
関では毎年7月の祇園祭りに4基の山車が引き出される。全盛期には16基あったという山車は優美にして豪華。「関の山」という言葉は、ここ関の山車の、これ以上ない見事さから生まれたとか。それをいうなら、今の関町こそ、旧東海道の町並みをこれだけ残していれば、「関の山」である。
西に鈴鹿峠を控えた関宿は、東海道の重要な関所として栄えた。
関の町並みで、誰もが必ず立ち止まる古風で美しい商家がある。銘菓「関の戸」の店、深川屋陸奥大掾だ。寛永年間(1624〜1643)創業という老舗で、創業とともに生まれた銘菓「関の戸」は、街道の名物というようなものではなく、都好みの洗練されたお菓子だ。
現在の店は天明4年(1784)の再建だが、中央に唐破風の屋根がついた庵看板、正面の連子格子、2階の虫籠窓と、重厚な風格を漂わせる。
一歩店内に入ると、柔らかな照明の下、店の格式を物語る江戸時代の豪華な菓子器が螺鈿をきらめかせていた。
「江戸時代の商家の店先そのままですから、ぜひ中に入って見ていただきたいんですが、入りにくいのか、外から覗くだけの方も多いですね」
と、13代目当主・服部泰彦さん(昭和11年生まれ)。芸術家のような風貌の方である。
三男だった泰彦さんは、家業を継ぐことになった時、「商売ではなく文化を継ぐ」つもりだった。それだけに、深川屋は1階も2階も博物館のようである。古書画、歴史資料、民芸品に囲まれて、お話がまた、関の歴史と町起こし、東海道の回顧そのものであった。
泰彦さんは、6代目が書き残した「関の戸」の材料の割合を発見し、割合を6代目当時に戻した。これも、「文化を継ぐ」意識。
関には「もてなすDNAが受け継がれている」と泰彦さんは言う。「関の戸」や関の町並みは、自然体でも人々に浸透してゆく、ということか。
関には、東海道から伊勢路に入る「一の鳥居」が立っていた。鳥居の先は、津、松阪を経て伊勢神宮に至る道である。
三重県の県都・津市は、古くは日本三津の一つといわれた良港だったが、室町末期の大地震で港が失われ、その後は藤堂高虎の築いた城下町として知られた。だが、江戸時代の津のにぎわいは、ここが伊勢路の重要な宿場であったことにもよるのである。
明治以降は県庁所在地となったが、宿場町の活気を失い、城下町の遺構も戦災で破壊されて、工業都市を目指してきたのが、現在の津である。
今回、近代日本絵画の良質なコレクションで知られる三重県立美術館を訪ね、梅原龍三郎や岸田劉生の作品を堪能した。美術館に向かう途中に通った偕楽公園界隈などには、さすがに県都ならではの洗練された雰囲気が漂っていた。偕楽公園は、藤堂家別邸跡を公園にしたものである。
津には、県下最大の寺で、国宝を含む幾多の寺宝を所蔵する専修寺が一身田町というところにあるが、訪ねる時間がなかった。
津の海岸。夏は長大な砂浜が海水浴客でにぎわう。
津城跡。藤堂高虎の本格的な築城で名高いが、建物は戦災などで失われた。3層の隅櫓が復元されている。
津観音の観音堂。かつては東京・浅草の浅草寺、名古屋の大須観音とともに、日本三観音と称され、参詣者を集めた。
津には、この土地に古くから伝わる物語にちなんだ銘菓「平治煎餅」がある。大正2年(1913)に平治煎餅本店が創製したもので、今や津で最も知られる名物菓子だ。
物語というのは、こうである。阿漕浜の漁師平治は、病気の母に食べさせたい一心で、神宮ご用の禁漁区で、ヤガラという栄養に富んだ魚の密漁をしていた。しかし、平治は、ある日浜辺に忘れてきた笠を証拠に捕らえられ、簀巻きにして阿漕浦沖に沈められてしまう。伊勢では知らない人のない悲話である。
「平治煎餅」は、この話の笠をかたどった、さくさくと口どけのよい卵せんべい。笠の形を煎餅にしてみようと考えたデザイン感覚が奇抜だ。
津観音の観音堂 津観音の観音堂。かつては東京・浅草の浅草寺、名古屋の大須観音とともに、日本三観音と称され、参詣者を集めた。
平治煎餅本店は、津観音の門前にひらける商店街、大門にある。
就任間もない4代目社長伊藤博康さん(昭和42年生まれ)は、なによりも津の町、ことに津観音の界隈が活気を取り戻して欲しいと願っていた。
「津観音のご本尊は、阿漕浦で漁師の網にかかって引き上げられたという言い伝えがあるんです。うちとは切っても切れないご縁があります。なんとかここがにぎやかになるように、いろいろ考えてみたいと思っています」
伝説の阿漕浦あたりは今、海水浴客に人気のビーチになっている。
鈴屋(本居宣長旧居)。もと魚町にあったものが城跡内に移築されている。宣長はここで、医師の仕事をするかたわら、著述を行った。
松阪商人の館(小津清左衛門邸)。松阪木綿などを扱った江戸時代の屈指の豪商小津家の邸宅を公開している。
松阪に入ると、東京住まいの人間にも親しみが湧く。東京にも、松阪生まれのなじみのものが多いからだ。松阪牛、三井、三越、本居宣長。宣長は小津という木綿問屋の出だが、かの有名な映画監督小津安二郎も松阪の出身である。
松阪は秀吉の時代に蒲生氏郷が城を築き、城下町の基礎をつくったが、徳川の時代には紀州藩領となって、城代が置かれた。その紀州藩が藩士を派遣して城を守らせた御城番屋敷が、搦め手門に続く道の両側に残っている。槙垣をめぐらせた一続きの長屋が向かい合わせに建ち、小割りにして10戸ずつが住んだものだ。ここには、今も実際に人を住まわせ、文化財の荒廃を防いでいる。
松阪城跡は石垣だけだが、一角には本居宣長記念館があり、宣長の旧宅「鈴屋」が移築されている。二階の宣長の書斎を覗き、宣長は、この小部屋から全国に名を馳せたのかと思い、心を打たれた。
御城番屋敷。松阪が紀州藩の領地となった江戸時代、城を守るために派遣された紀州藩士が住んだ長屋。重要文化財。
蒲生氏郷が近江の国日野から松阪へ入部した時、氏郷に従って松阪へやってきた商人たちがいた。銘菓「老伴」で知られる柳屋奉善のご先祖もその一人である。
天正4年(1575)、日野で創業したご先祖は、天正16年(1619)松阪に移り、「老伴」(当初の菓名は「古瓦」)を創製した。これが三井などの豪商、貴顕に用いられ、明治以降は毎年のように皇室のご用でお菓子づくりをしてきた。
「老伴」は、円形の蓋のない最中生地に、ぶどう色の羊羮を詰めたお菓子である。最中の皮の型は、中国前漢時代の瓦当の模様で、鴻(大型の鳥の総称)の絵に「延年」の文字が入る。
柳屋奉善の社長は現在17代目の岡久司さん(昭和27年生まれ)。ユニークな発想で、松阪を考え、町づくりにも熱心に参加してきた方である。
松阪の道に見られる隅違いは、敵の来襲に備えた武者隠しではなく、松阪に流れ込む膨大な旅人を回遊させるための、蒲生氏郷が考えた仕掛けだ、などという見方もその一つ。
そして、「松阪といえば松阪牛が有名ですが、この町を象徴するものといえば、本居宣長だろうと思います」
宣長の愛した鈴をかたどった最中や、宣長が調合した「あめぐすり」を復元した「宣長飴」など、柳屋奉善には宣長にちなむお菓子も多い。
久司さんは、温故知新の人だ。油断のならない、氏郷ゆかりの者の末裔である。
三重県亀山市関町中町387 TEL 0595(96)0008
三重県津市大門20―15 TEL 052(225)3212
三重県松阪市中町1877 TEL 052(225)3212