菓子街道を歩く

ホーム > 菓子街道を歩くNo.161 鹿児島

鹿児島「南都の熱い心」

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桜島がある

 鹿児島に行けば桜島がある、とはわかっていても、いざ桜島を目の前にすると、なにか心を揺さぶられるような気持ちになる。鹿児島に一泊して、朝、桜島を見て、また驚く。 
 鹿児島では、一日の疲れをとろうと皆で一杯やることを、「だいやめ」(「だれやめ」の音便)と言うそうである。「だれ」が疲れ、「やめ」は止めるの意。いうまでもなく、飲むのは焼酎だ。そんな「だいやめ」の最中も、桜島は赤い噴煙をみせながらどっしりと座っているのである。
 何年ぶりかの鹿児島であったが、にぎわいぶりに驚いた。天文館の盛り場は、以前の3倍くらいに膨れ上がった感じで、おしゃれな店がたくさんできている。港には4年前にブティックやレストランなどの入ったドルフィン・ポートが誕生し、人気のスポットになっていた。今年はここに、NHK大河ドラマ「篤姫」関係の資料を展示する「篤姫館」が設けられている。
 鹿児島が活気を取り戻している理由の一つは、九州新幹線の部分開業である。新八代駅―鹿児島中央駅間が開通し、4時間近くかかった博多―鹿児島間が最速2時間12分に短縮された。博多―新八代間が開通すると、博多から鹿児島まで1時間20分ほどになる。 
 九州での旅の形が、大きく変わってきた。

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仙巌園(磯庭園)。万治元年(1658)、19代・島津光久が別邸を建てたのが始まり。桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた雄大な借景の庭が見事

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尚古集成館。島津斉彬が指揮を執り、大砲やガラス、刀剣、農具、地雷など西洋の技術を導入して造った洋式工場群の一つ。仙巌園に隣接して建ち、現在は薩摩藩の歴史資料などを展示する博物館になっている。   石橋記念公園。甲突川には江戸末期に5つの石橋が架けられ、五石橋と呼ばれて親しまれていたが、平成5年の集中豪雨で、2橋が流失した。残った3橋を確実に後世に残すため、河川改修に合わせて移設・復元して公園化した。

「かるかん」は薩摩

 今回の菓子街道は、鹿児島の伝統を担う銘菓「かるかん」を訪ねての旅である。
 城山公園にほど近い金生町に、「かるかん元祖・明石屋」を訪ねた。
 明石屋の初代八島六兵衛は播州明石の出身で、江戸で菓子職人をしていたが、安政元年(1854)、薩摩藩主島津斉彬公に請われて鹿児島へやってきた。江戸を代表する菓子店、風月堂が島津公に六兵衛を推挙したという。
 六兵衛は鹿児島で明石屋を名乗り、薩摩藩御用菓子司として、今日に伝わる明石屋の「かるかん」を創製。明治初年、明石屋2代目を木原政吉に譲って東京に帰る。その後の明石屋は3代目が木原末吉、4代目は末吉夫人の弟、岩田嘉藤次が継ぎ、5代目太一、6代目で現会長岩田泰一さん(昭和13年生まれ)、社長岩田英明さん(昭和41年生まれ)と続いて今日に至っている。
 「かるかん」の歴史は古く、元禄12年(1699)には、第20代島津公の50歳の祝賀に用いられていた。他の大名家でも「かるかん」は祝い事の席などに登場しているが、いずれも薩摩より時代が下る。しかも島津家では、ことあるごとに「かるかん」が供されていた。「かるかん」は、もとは中国か朝鮮から渡来した菓子で、薩摩が最も早く取り入れ、珍重した上菓子であろうと考えられている。
 この島津家の「かるかん」を製造してきたのが、明石屋であった。

山芋がいのち

 「かるかん」は山芋と米の粉と砂糖だけで作られる蒸し菓子である。棹物から始まったが、餡の入った「かるかん饅頭」も案外に古く、弘化3年(1846)の島津家の記録に登場している。
 材料の山芋は、明石屋では栽培ものではなく、山で採れる自然薯を使う。栽培の山芋では、自然薯に比べて7、8割の粘りしかでないためである。そこで、「かるかん」を作るには、自然薯を確保で
きるかどうかが死活問題に
なる。
 岩田社長からおもしろい話をうかがった。
 「鹿児島には、山芋掘りの人たちをたばねるかたが10人ほどいるんです。限られた自然の産物を採るんですから、あいさつをしたり、そこはいろいろなことがあるんでしょうね。私どもは、そうしたかたたちのうち7、8人の方と密接な関係をもっています。年間55トンの山芋を使いますが、今のところ、需給のバランスは安定しています」
 山芋掘りの組織があって、親方衆がいて、いかにも薩摩らしい話だ。
 それにしても、特別、山芋の産地でも米の産地でもない鹿児島で「かるかん」が受け継がれてきたのは、なぜだろうか。
 「この素朴な風味と、白く凛とした姿が、清廉潔白を重んじる薩摩の気風に合っていたんじゃないでしょうか。明石屋は、このかるかんを、この土地と風土を愛する鹿児島の人たちのために伝えていこうという気持ちで仕事をさせていただいているんです」

石の橋、石の工場

 鹿児島では、桜島のほかにも多くの見どころが旅人を迎えてくれる。
 市の中心部を流れる甲突川沿いの加治屋町一帯は、西郷隆盛や大久保利通が生まれ育った歴史の地。西郷生誕地碑近くにある維新ふるさと館では、多くの逸材を育んだ薩摩式の教育制度「郷中教育」などについても紹介している。かつて甲突川にかかっていた5つの見事な石橋は平成5年の豪雨で2橋が流失したが、残った3橋は鹿児島駅の北西に移設。立派に復元されて、石橋記念公園として整備されている。
 また、仙巌園(磯庭園)は背後に山が迫る細長い地形に造られた名庭として知られるが、こういう地形を庭園にした例は、他に例がないのではないか。しかも、この地は石造建築の機械工場(現・尚古集成館)などもある、気鋭の君主・島津斉彬公の近代産業化への実験場でもあった。
 ここから桜島を眺めていると、日本の一歩先を歩いていた鹿児島人の、誇りと焦燥が熱く伝わってくる。
 日本の歴史に独自の地歩を占め、いま60万人超の人口を擁して魅力を発揮している鹿児島を、現代日本の南都と呼んでみたい気がした。

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甲突川に隣接する加治屋町周辺は、風情あふれる歴史の散歩道。江戸時代に下級武士たちが住んでいた加治屋町は、西郷隆盛や大久保利通、村田新八、東郷平八郎など、幕末から明治にかけて活躍した多くの逸材を輩出した。   甲突川沿いにある「維新ふるさと館」。ロボットと大型スクリーンに映し出される映像などを駆使して、幕末から明治維新に至る激動の時代をわかりやすく紹介している。

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郷隆盛銅像   大久保利通銅像

かるかん元祖明石屋

鹿児島市金生町4-167 TEL. 0120(080)431

「鹿児島に明石屋があってよかったと、鹿児島の人たちから言っていただける菓子屋になりたいのです」
岩田英明
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明石屋本店   代表銘菓の「かるかん」と「かるかんまんじゅう」