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菓子街道を歩くNo.164 熱海・網代

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網代駅の裏山からの風景。湾に沿って右手に網代港、さらにその奥が網代の町。豊富な湯量を誇る温泉地で、大らかな海の景色と、のどかな風情も人気。 |
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伊豆のとば口
伊豆に向かう踊り子号に乗って熱海を過ぎ、多賀のあたりにさしかかると、相模湾の海が一望のもとに開けてくる。弓なりに続いてゆく美しい海岸線は、やがて一つの岩鼻の手前で深い湾をなしている。そこが網代湾であり、網代の港だった。
今回は、銘菓「伊豆乃踊子」のお店を訪ねて、網代にやってきたのである。
東京あたりでも、網代は熱海の先にあるアジの干物で有名な町、程度にしか知られていない。おそらく銘菓「伊豆乃踊子」の名は聞いていても、その
製造元の菓子舗・間瀬が、網代にあることを知る人は多くないだろう。
駅を出て港に降り、干物を売る店がずらりと並ぶ通りを抜けた先、岩鼻の縁に当たる狭い土地に、密集した市街地がある。旧下田街道はここを通っていて、目抜きに菓子舗・間瀬の本店があった。
当主は現在、5代目の間瀬眞行さん(昭和25年生まれ)。お話をうかがっていると、この店の歴史は、まったく網代の歴史そのものであった。
「伊豆乃踊子」まで
えっ、横山大観がお宅におられたんですか?
「戦中戦後の食料難の頃、網代は余るほど魚がとれるところでしたからね。大塚巧芸社という美術出版社の社長さんが網代に疎開されていて、大観、前田青邨、安田靫彦といった先生方が網代によく来られたんです。美術好きの祖父のところが、自然と、お酒を飲んだり宿泊されたりする場所になりました。祖父は一間を玄関まで別にして、先生方専用にしていたくらいです」
「大観先生は、とにかくお酒を召し上がる方でしたね。食べ物はちっとも召し上がらず、お酒だけでした」
と、これは同席してくださった悦基夫人、眞行さんのご母堂幾代さんの言葉。
康雄さんご自身は絵を描かれたんですか。
「いや、祖父は描きませんでしたが、父は下田出身の太田聴雨先生に弟子入りして絵を描きました。祖父も一時は、父を画家にさせてもいいと思ったこともあったようです。しかし、結局父は菓子屋を継ぎ、昭和41年に『伊豆乃踊子』を作ることになります」
そして「伊豆乃踊子」が大ヒットとなったのですね。
「これを売り出してすぐに川端先生がノーベル賞を受賞されました。間もなく山口百恵さん主演の映画ができたりして、お菓子も川端文学ブームに乗りましたね。一時は売上の8割以上が『伊豆乃踊子』で、ほかのお菓子が作れないようなありさまでした」
感性をお菓子に
社長ご自身も、禅や絵をおやりになるんでしたね。
「鎌倉円覚寺系の禅で、網代に昭和初期に支部ができたんですが、さすがに3代続いて禅道場に通っているのは珍しいといわれます。ですが、禅は茶や書などにも通じる日本文化の基礎と思って続けています。絵は宮本沙海先生に入門しました」
常々、お菓子作りでお考えになっているのは、どういうことでしょうか。
「新しいことに挑戦したいということです。そうしないと、自分がつまらない。できれば、自分たちの感性を注ぎ込めるようなお菓子づくりをしたいと思っています。もともと私は洋菓子を習ったんですが、30歳の時、和菓子だけに力を注ごうと、それまでやっていた洋菓子を一切やめました」
間瀬では毎月、「今月のお菓子」という新作を、月の後半だけの期間限定で売り出しているが、この試みが10年を越えた。そのなかから続々と定番菓子も生まれている。
お話をうかがったあと、長谷観音堂と阿治古神社に案内していただいた。由来は写真説明に譲るが、網代の名所である。最後に、間瀬家の住宅の一階を、茶室を中心に茶味豊かに改装し、喫茶室として開放している好日庵にご案内いただいた。菓子舖・間瀬には、宮城道雄の名曲にちなむ「春の海」という銘菓があるが、こういうところでいただきたいものだと思った。
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阿治古(あじこ)神社。網代の氏神様で、毎年7月に行われる例大祭は、神輿を乗せた船形の山車が町内を練り歩き、鹿島神宮より発祥したと伝わる鹿島踊り(市無形文化財)が奉納される勇壮な祭りとして知られる。 |
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石丁場跡。市街地を見下ろすようにそびえる朝日山の頂上付近に、江戸城の増改築で使われた石垣用の採石場が残る。 |
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菓子舗 間瀬
静岡県熱海市網代400-1 0120(048)144
間瀬 眞行