菓子街道を歩く

ホーム > 菓子街道を歩くNo.165 長岡/新潟

長岡/新潟 「越後の二都」


長岡 花火にこもる底力
長岡まつり大花火大会。8月2日・3日。信濃川河川敷で打ち上げられる尺玉以上の大型花火2万発は、日本一といわれる。写真は天地人花火(2008年8月3日打ち上げ)
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悠久山公園。代々の藩主が木を植え、神社を造営するなどして整備、市民から「お山」の愛称で親しまれている。山上にある城を模した建物は、長岡市郷土資料館。   河井継之助記念館。幕末の長岡藩で藩政改革に腕をふるい、戊辰戦争でもめざましい戦いぶりをみせたが、負傷がもとで42歳で世を去った河井継之助の記念館。



復興の町

 長岡には、戊辰戦争の英雄・河井継之助、太平洋戦争の名将・山本五十六、救援米百俵を学校建設にまわした小林虎三郎、さらにNHKの大河ドラマで浮上してきた与板城主・直江兼続など、歴史上の偉人が多い。ただ、河井継之助や山本五十六の記念館もあるが、ゆかりの遺跡や遺品はあまり残っていないようである。
 長岡に古いものが残らなかったのは、戊辰戦争で幕府側について戦ったことにもよるが、なんといっても第二次大戦の空襲によって破壊されたためである。終戦を半月後に控えた8月1日、50機のB29が長岡上空に飛来し、全市の8割、1万2千戸を焼き尽くした。千百余名の死者も出ている。長岡が米軍にねらわれたのは、明治以降、日本に数少ない油田を開発し、工業都市としてめざましい発展をとげていたからであった。空爆によって、工場だけでなく、歴史的な建造物や文物も焼失してしまったのである。
 しかし、戦後、長岡は明治以降に培った技術力を生かして復興した。

雪のように溶ける

 今度、長岡を旅して銘菓「越乃雪」を初めて食べた。見るからにくずれそうな一個を口に入れると、和三盆糖の甘さだけ残して、お菓子の固まりはあとかたもなく消えた。
 「あっ、これは雪ですね」
思わず口に出た言葉に、
 「雪でしょ、越後の」
と応じたのが、大和屋の現当主、岸洋助さん(昭和19年生まれ)である。
 「越乃雪」は、越後の上質なもち米を寒ざらしという方法で乾燥させた寒ざらし粉に、四国の和三盆糖を独自の配合で合わせ、越後の気候による「しとり」を加えて押し物にしたお菓子である。
 「長岡藩主は牧野様という徳川譜代の大名ですが、9代目の藩主に牧野忠精という方がおられました。江戸で生まれ育ち、ずっと江戸におられた方で、17、8歳の頃、初めて長岡へお国入りしたんですね。気候の異なる土地で、緊張もあおりになったんでしょう、体調を崩された。近臣の方々が心配されて、私どもの先祖大和屋庄左衛門に相談されました。そこで寒ざらし粉に甘みを加えたお菓子を調製し、差し上げたところ、食欲が出て、体調も回復されたというんです。庄左衛門はお城へ招かれ、忠精公から『実に天下に比類なき銘菓なり、吾一人の賞味はもったいなし、これを当国の名産として売り拡むべし』というお言葉をいただき、『越乃雪』の菓名も賜りました。それが安永7年(1778)のことです。まあ、その時代、砂糖は薬と考えられていましたからね」
 この話からすると、大和屋は、元和7年(1621)に牧野氏が入封する以前からの、長岡の有力な商人だったようだ。

幸せなお菓子

 「文政8年(1825)に御用菓子商として、さらに天保元年(1830)には藩の金物御用を命じられまして、金物屋になりました。しかし、一方では同じ年に悠久山神社のお供え菓子を献上しています。金物屋とお菓子屋を兼業していたわけです。与板などが金物の名産地でしたから、金物の商いは、藩にとっては重要だったのでしょう。
 その後も『越乃雪』はずっと作り続けてきましたが、河井継之助もこのお菓子を愛好していたといいますし、米百俵の小林虎三郎が師の佐久間象山に進物として用いたり、高杉晋作が亡くなる10日ほど前に、今年の雪見はできそうもないからと、盆栽の松に雪の代わりに『越乃雪』をふりかけて眺めた、というようなエピソードが伝わっています。明治になっても、明治天皇をはじめ貴顕の方々に召し上がっていただき、今次の大戦中も、商工省指定の技術保存商品の指定を受けて、中絶を免れました。実に幸せなお菓子だと思っております」
 お菓子も幸せだが、お菓子屋のご主人も幸せである。
 もちろん、大和屋には「越乃雪」以外にも銘菓がたくさんあり、上生菓子も作っていて、茶席でよく使われている。岸社長のお菓子作りの心をうかがってみた。
 「『越乃雪』に次ぐ準エースは欲しいですね。今のところは『俵最中』、『胡麻餅』といったところですか。しかし、あまり欲張らず、『越乃雪』以外のお菓子は、時代の求めに応じて、入れ替えをしていけばよいのだと思います。
 私どもの家訓は、『家業を楽しむべし』なんです。私も楽しみながら仕事を続けてゆければと思っています」

信濃川の流れ

 長生橋の上から信濃川を見た。たっぷりとられた河川敷の緑の中を、大きくカーブしながら流れてくる信濃川が、なんともいえず美しい。この風景を、長岡の人々は日々見てきただろう。
 長岡を蘇らせてきたのは、この信濃川かもしれない。流れ去るもののあとから、次々に新たな力が生まれているのである。
 「長岡の花火は、一度見てください」と岸社長が言わnれた。
 広い河川敷を使って、思うさま打ち上げられる花火は、長岡の底力を示す祭りなのだ。越後屈指の城下町であった長岡は、戊辰戦争で城を失っても、大戦で有形の歴史のほとんどを失っても立ち直った。形のない、目には見えない伝統の力というものを感じさせる町が、長岡である。

越乃雪本舗 大和屋

新潟県長岡市柳原町3-3 0258(35)3533

「季節のうつろいを感じられる越後の風土を愛したお菓子作りを続けていきたいと思っています」
岸 洋助
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    越乃雪

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栗甘美

新潟 自由を愛する気風
信濃川のウォーターフロントに立つ複合施設「朱鷺メッセ」。県立のコンベンション施設のほか、ホテルや美術館が入っている。

堀と柳と美人

 夜、タクシーで萬代橋を渡り、旧市街の華やかなネオンのなかに入って行くと、新潟は大都会だな、と思う。
 堀と柳と美人の町といわれた新潟。美人には、市中に美人が多いということのほかに、名だたる新潟の花柳界の意味も含まれているに違いない。
 だが、今度新潟を訪ねてみて、そんな三題噺じみた標語で漠然と思い描いてきた新潟とは違う新潟と出会えた気がした。いや、違うというより、ある意味で堀と柳と美人の背景がわかってきたといったほうがいいだろう。
 新潟で、銘菓「流れ梅」で知られる老舗大阪屋を訪ね、6代目社長岡嘉雄さん(昭和27年生まれ)のお話をうかがって、新潟にはまだまだ奥がある、の感を深くした。

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萬代橋。現在の橋は昭和4年(1929)竣工で3代目。2004年に国の重要文化財に指定された新潟市のシンボル。

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旧新潟税関庁舎。港町新潟の面影を残す建物を集めた「みなとぴあ」地区にある。擬洋風建築で、国の重要文化財。   行形亭(いきなりや)。江戸時代中期から続く老舗料亭。広大な庭に離れ座敷が点在する造りで、140畳の広間なども。北前船の寄港地として栄え、明治元年からは日米修好通商条約の開港5港に指定された新潟のにぎわいを今に伝える。

港がはぐくむ反骨

 岡さんの見る新潟市民気質をうかがってみよう。
 「新潟の町に昔から住んでいる者が共通して持っているものがあるとすれば、自由を求めるというか、何よりも規制を嫌うということでしょうね。ここは港町ですから、人の出入りも比較的自由でしたし、多かったわけです。
 金沢や長岡のような城下町だと、領外へ一歩出れば他国ですから、人の結びつきも経済も国の内部で固かった。そういう性格は今でも続いているところがあって、旧城下町はお菓子の業界一つとっても、まとまりがいいし、組織率が高いですよ。新潟のような港町は、それぞれが自由ですから、そうはいきません。
 直江兼続がいた時代にもそういうことがあったようですが、江戸中期の明和年間に、たった2カ月ほどでしたが、明和義人として伝えられる新潟町民が藩に対抗して自らの町の自治を行ったことなどがありました。そういう歴史を持っていますから、上から力でこうせよといわれるのが嫌いです」
 そういう新潟で、岡嘉平が安政5年(1858)、菓子店・浪花堂大阪屋を開業した。
 「嘉平は滋賀県の、今の豊郷町の出身ですが、大阪で菓子修業をしたことから、大阪屋と名乗っています。嘉平の生まれた彦根藩では当時、次男三男などはどんどん国外に出て稼ぐべしと奨励していましたので、郷里を出たことはわかるんですが、なぜ新潟に来たのか、ということはよくわかりません。ただ、明治の初期は、新潟の人口が日本一だったんです。東京よりも多かった。それほど米がとれ、栄えていたところなんですね」

モダンと雪国の風土

 大阪屋の目指すお菓子作りについて、岡さんはこう語る。
「新潟は城下町ではなく実質的な土地柄ですから、象徴的な表現よりも、食べやすいことを第一に考えています。そして、新潟らしい風情や自然を感じさせる、または新潟人の性がわかるような菓子が作れれば、と思っています。
 昭和4年にはパンを作ってイタリア軒や新潟鉄工所などにおさめていました。戦後もすぐに本格的に洋菓子を始めています。
 ただ、新潟はなんといっても雪国で、土くさい背景も持っています。昭和28年に『雪國』という立体形のお菓子を発売しましたが、これは新潟らしさということが発想のもとでした。
 『流れ梅』は昭和61年に売り出したものですが、新潟の内陸の渓流のイメージです。これにはいささか思い入れがあって、好きなお菓子です」
 大阪屋にはほかに、円形の小倉羊羮「喫茶去」、抹茶のカステラ生地に新潟の地酒を入れて新潟の掘割りをイメージした「緑の柳」など、特色のある銘菓がある。
 大阪屋は、昭和30年代からはのれん分けの施策としてフランチャイズチェーンシステムを採用、今では県下に80店以上の加盟店を数える。同時に、経営の合理化以上に労働条件の改善にめざましい実績をみせてきた企業だ。

海岸通りの記憶

 大阪屋がかつてパンをおさめていたというイタリア軒に一泊し、朝、ホテルの裏側に当たる海の方へと歩いてみた。
ホテルのすぐ横に蕗谷虹児の「花嫁人形」を刻んだ碑がある。虹児は若い日、このあたりで貧乏暮らしをしていたことがあったようだ。
 また、海に近いあたりに行形亭という豪華な料亭があり、そのすぐ近くに北方文化博物館分館があるが、ここに、疎開してきた渾斎秋艸道人・會津八一が住んでいたという。八一の記念館はもう少し海寄りにあった。
 會津八一はもともと新潟の生まれで、昭和20年に故郷に疎開し、そのまま新潟の土となった。学者、歌人、書家として高名な人物である。現在、大阪屋が用いている看板は、八一の手になるものだ。
 南浜通、大畑町といった界隈を歩いていると、往時のモダンな雰囲気をもった新潟の町が、おぼろに見えてくるような気がした。

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日本海に面する新潟市は、名だたる夕日の名所としても知られる。

大阪屋 古町本店

新潟市中央区古町通7番町1006-1 025(229)3211

「新潟の風景や産物、そして風情が込められたお菓子を作っていきたいんです。」
岡 嘉雄
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    新・雪國(平成17年発売)

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涼味流れ梅