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菓子街道を歩く 高松「和菓子に伝える 瀬戸の都の心」 No.178

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栗林公園。豊臣秀吉の時代からの領主・生駒氏が着工し、徳川時代の藩主松平氏が引き継いで100年の年月をかけて完成したという大名庭園。国指定の特別名勝に指定されている庭園としては最も広い面積を持つ。 |
栗林公園舟遊び
今年の7月から、栗林公園の池で舟遊びができるようになった。かつて高松の殿様が舟を浮かべて以来、おそらく百何十年ぶりかの出来事ではないだろうか。
舟は所要時間約25分、季節によって多少の違いはあるが、一日13〜17便が運航される。広大な栗林公園全体からすれば、巡るのは南湖と呼ばれる公園のほんの一部だが、ここは池畔に歴代の藩主が使った茶室・掬月亭のある、全庭園中の白眉といってよい場所だ。
様々な逸話を交えた船頭さんの解説を聞きながら、緑濃い紫雲山を背景に6つの山と13の築山が巧みに配置された日本屈指の大名庭園を水上から眺める気分は、また格別である。
今回の高松の銘菓を訪ねる旅は、この栗林公園での舟遊びで始まった。高松の和菓子の老舗・三友堂の4代目社長、大内泰雄さん(昭和19年生まれ)のご趣向である。舟遊びのあとは、北湖に面した花園亭で讃岐うどんを、南湖畔の掬月亭で茶菓とお薄をゆっくりといただいた。
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高松城跡(玉藻公園)。天正16年(1588)、生駒親正が黒田如水の設計で築城したといわれる。水門によって海水を引き入れ、防御と水運に備えた水城として名高い。月見櫓、渡櫓、艮櫓、水手御門が国の重要文化財に指定されている。 |
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市街中心部では新しい町づくりが進む。丸亀町と片原町・兵庫町の3つの商店街の交差点には、ミラノのガレリアを思わせるドームが誕生した。 |
銘菓「木守」由来
大内さんは、高松の街づくりや様々な文化活動に携わっているが、その際、老舗の主人であると同時に茶人としても重きをなしている。その茶道への精進は、三友堂の歴史と深く関わる。
「私のところの先祖は、高松藩の藩士だったんですが、明治を迎え、廃藩置県で禄を失った時に、藩士仲間3人で菓子屋を始めました。明治5年(1872)のことです。三友堂という店の名は、この3人の友ということが起こりです。武家の商法ですから、難しかったとみえて、一人抜け二人抜け、私の先祖大内久米吉だけが残ったわけです。
初代の久米吉が創案した菓子に、『霰三盆糖』があります。江戸時代の高松では、讃岐三白といわれた特産品が有名でしたが、それは塩と綿と、もう一つが讃岐和三盆糖でした。初代はこの讃岐和三盆糖をそのまま味わえる菓子を考えたのです。今も全国からご用命をいただいている当店の重要な商品です。
そして今、私どもの店を代表する菓子になっております『木守』は、2代目大内松次の創案です。この菓子の誕生には、こんな逸話があります。
ある時、千利休が弟子たちを集め、楽長次郎に焼かせた茶碗を並べて、好きなものを持ち帰るがよいと言ったところ、赤楽茶碗が一つだけ残りました。利休はこの茶碗に、柿の収穫時に木に一つだけ残される木守柿にたとえて、『木守』という銘を与え、後に大変な名器となったのです。
それが武者小路千家から高松藩主松平家に献じられたのですが、関東大震災の折、東京に置いてあったために壊れて焼けてしまいました。昭和の初め、残りのわずかな破片を加えて、名器『木守』が再現されました。そのことを喜んで、2代目の松次が銘菓『木守』を創案したのです」
「木守」は、漉し餡と柿ジャムを寒天でかためた柿餡を麸焼き煎餅ではさみ、三盆糖を塗った菓子である。表面の焼き印は、茶碗の「木守」の巴高台の渦巻き。柿ジャムは干し柿から作っているそうだ。
2代目は菓子一筋の人で、茶道、書、絵画などの趣味も菓子作りに役立てるために学び、自ら包装紙の絵や文字も書いたという。その2代目が残した銘菓「木守」にこもる力が、4代目を茶道に精進させたのであろう。
三友堂
香川県高松市片原町1−22 087-851-2258
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木守 |
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霰三盆糖 |
讃岐和三盆糖の上品な香りと
つつましやかな甘味。
それを生かせる技術と心を
伝えていきます。