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菓子街道を歩く 宮崎「神話のかたち 南国の香り」 No.179

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鵜戸神宮。社殿のある岬の突端は、山幸彦の妻・豊玉姫が皇子(神武天皇の父)を生んだ地と伝えられる。眼下の波打ち際にある亀石に運玉を投げ、背に乗ると願いが叶うとされ、一日中、観光客の歓声が響いている。 |
明治生まれの街
日向の国・宮崎は、『古事記』に描かれた日本建国にまつわる神話の地である。だが、県都の宮崎市は、明治生まれの街なのだ。
宮崎市は宮崎平野の中心地で、中世には様々な興亡のあった土地だが、江戸時代になると、どの藩の中心からもはずれ、ありふれた農村となっていた。そこに紆余曲折の末、明治新政府が県庁を置き、明治16年(1883)、現在の宮崎県が誕生したのである。
日本有数の近代ゴシック建築である宮崎県庁舎は、昭和7年(1932)の建物だが、宮崎が戦災や大火に見舞われなかったならば、おそらくこうした明治・大正の面影を伝える建物が、各所に残っていたことだろう。
ただ、街は明治生まれでも、宮崎の魅力は、古代の神話や遺跡、そして南国の風土にある。国道沿いのヤシの木は南国・宮崎のシンボル。また、県庁舎前の照葉樹クスの並木も、市民に愛されてきた。
今回の旅は、その宮崎に、宮崎銘菓「つきいれ餅」で知られる金城堂を訪ねた。
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鵜戸神宮本殿。崖上の洞窟内に造られている。漁業・航海・安産の神として広く尊崇されてきた。 |
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宮崎県庁。昭和7年(1932)建設の、全国で4番目に古い近代ゴシック建築。内部も大理石を用いた正面階段などに、クラシックな意匠が見られる。 |
伝説の「つきいれ餅」
金城堂本店は県庁と同じブロックの、宮崎のメインストリート橘通りに面して建っている。明治13年(1880)、この地で創業。現在の当主は4代目の原數子さんである。「明治の初めに、宮崎がこれから発展するということで、全国各地から人が集まってきました。新天地を求めて思い切って移住する、そういう時代だったんですね。私のところの先祖は、愛知県の、同じ村の人たち何人かで宮崎に移ってきたようです。
宮崎ではそれぞれ別々の商売を始め、私の先祖は菓子屋になりました。それが金城堂の創業者、初代・堀場岩次郎(通称・甚兵衛)です。店の名前の『金城』は、名古屋城の別名からとったものです。
現在、代表銘菓となっております『つきいれ餅』は、大正時代の末、祖父の2代目・堀場一の時代にできました。
『つきいれ餅』は、もともと宮崎に伝わる郷土菓子で、神武天皇が東征の折、美々津の浦で風待ちをされていたところ、潮の具合で急に出航されることになったため、里人が急いで作って献上したのが始まりという伝説があります。それが、餡を包む時間もないので、小豆を搗き混ぜて作った餅でした。その素朴な餅を、上質な大納言小豆と求肥餅を用いて菓子に仕立てたのが、私どもの『つきいれ餅』です」
祖父が創製し、父・堀場道高氏が育てたこの銘菓を、原さんは4代目を継いですぐに、小豆と宮崎特産の日向夏みかん入りの二つの味のセットにした。異なる味が互いを引き立てる、このリニューアルが成功して、「つきいれ餅」は、新しい時代にも対応する押しも押されもせぬ代表銘菓となっている。
家族チーム
金城堂のお菓子は、格調を持ちながら、どこか楽しい。これは家族によるチームが作っているからかもしれない。
今、金城堂では、先代夫人の堀場敏子さん、そのお嬢さんで原家に嫁いだ原數子社長、原社長のご子息で堀場姓を継いだ欣也さん(専務)と、お嫁さんの恵理さんという家族が働き手となっている。
「母(敏子さん)は高齢ですが、お店の手伝いをしないと、機嫌が悪くなるくらいの働き者です。欣也は東京で和菓子とともに洋菓子も学んで帰ってきましたが、それまで少し置いていた洋菓子をやめて、金城堂をあらためて和菓子の店にしようとがんばってくれています。『運だめし』を発案したのも、欣也です。嫁の恵理はデザインが得意で、今使っている『つきいれ餅』の箱もデザインしましたが、これがまた評判がいいんです。皆の知恵の出し合いですね。
ですが、お菓子作りというのは、いつも途上、そこで満足というわけではありません。お客様に受け入れていただけるかどうかも、それこそ運だめしのようなものですね」
宮崎市の目抜き通りに130年も続いている老舗が、動脈硬化も起こさず、家族チームで生き生きと新しい和菓子づくりに取り組んでいる。
感動であった。
金城堂
宮崎県宮崎市橘通東2-2-1 0985-24-4305
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運だめし |
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つきいれ餅 |
先祖伝来のお菓子といえども、
守っているだけでは
生き残れない時代です。
菓子の味も、菓子作りの心も
日々、磨き続けています。