菓子街道を歩く

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唐津「海の城下町の真ん丸の菓子」

「唐津くんち」は毎年11月2日〜4日に行われる。

ハレの日「おくんち」

  10月も半ばを過ぎ、秋空が高く澄みわたってくると、玄界灘に臨む城下町・唐津の町は、何やらそわそわし始める。
「もういっときしたら、おくんちやけんね」
 誰に聞いても、笑顔の答え。毎年11月2日から4日まで行われる唐津くんちこそ、普段は穏やかな唐津の町衆のエネルギーが爆発する日だ。
 唐津くんちは4百年近くの歴史をもつ唐津神社の秋季例大祭である。見ものは最大で高さ約6.8メートル、重さ3トンもある巨大な曳山。江戸から明治初期にかけて城下の町々が競って造ったもので、14台が今に伝えられている。
 漆と和紙で造られた獅子頭や兜などの意匠は勇壮で明るく、いかにも町人の祭りの主役。その曳山が、祭り装束をまとった曳子たちによって「エンヤーエンヤー、ヨイサーヨイサ!」の掛け声と共に町を練り歩く。
 今回の旅は、祭り囃子に導かれて、唐津を代表する銘菓「松露饅頭」ひと筋に165年の歴史を誇る菓子舗「大原老舗」を訪ねた。

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「虹の松原」。約400年前、初代唐津藩主が防風、防潮のため、海岸線にクロマツを植林したのが始まり。現在は長さ約4.5km、幅約500mの松林の中に約100万本の松が生い茂る。   「唐津城」。初代藩主・寺沢志摩守広高が慶長7年(1602)から7年の歳月をかけて、松浦川の河口に築いた海城。現在の天守閣は昭和41年築。

朝鮮王朝の宮廷菓子

 大原老舗は嘉永3年(1850)の創業。現在、大原潤一さんが6代目を継いでいる。
「初代は、惣兵衛という名で、“阿わび屋”の屋号で海産物を商っていました。唐津近海でよくとれるアワビを干し鮑にして船頭に売っていたんです。船頭はそれを長崎まで運んで中国の商人に売る。干し鮑といえば高級中国料理の素材の一つ、高く売れたのです」
 このユニークな“阿わび屋”という屋号は、いまも菓子のしおりや包み紙などに使われている。
「ところが明治維新で世の中が変わると、商売が立ち行かなくなってしまいました。そこで惣兵衛の妻のカツ子が内職で焼き饅頭を作って売り始めたところ瞬く間に評判となり、これを本業にすることにしたのです」
 カツ子さんが内職で作り始めた焼き饅頭は、漉し餡を薄いカステラ生地で包んで焼き上げるというもの。朝鮮半島の宮廷料理の菓子が原型で、独特の焼型を使って真ん丸に焼くのが特徴だ。
 古来より朝鮮半島との往来が頻繁だった唐津には陶器をはじめとして様々な朝鮮の文化が入ってきたが、食文化もその一つ。その中に焼き饅頭もあった。そして、唐津周辺では祭りの時などに家庭で作られていたという。
「菓子屋となってからはいよいよ味に技に工夫を重ねていきました。松露饅頭という名は、時の藩主、小笠原公に献上したときに賜ったと伝えられています」
 ちなみに松露とは、唐津の名勝・虹の松原に自生する球形をしたキノコだが、風情ある名前によって松露饅頭は名実ともに唐津の名物になった。そして、文明開化で近代工業化が進められるなか、炭鉱のあった唐津は石炭バブルに湧き、贅沢な松露饅頭が飛ぶように売れたのである。

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「唐津焼」。多くの茶人にも愛されてきた名窯。現在、唐津市内に70もの窯元が点在している。

手仕事の宇宙

 時が経ち、やがて炭鉱はすたれたが、唐津は夏の観光地としてさらに繁栄することになった。夏になると、福岡あたりから多くの海水浴客が風光明媚できれいな海を求めて押しかけてくるのだ。
「松露饅頭は絶好のお土産として大人気になりました。そこで昭和40年頃、父・大原令光は量産化を考え、熱源を炭火からガスに変えました。これによって火加減の調節がラクになり、16個用だった焼き板を20個用にすることができました。ですが、饅頭の作り方は、今も昔も、すべて手仕事です。オートメーション化も試みましたが、成功しませんでした」
 その手仕事を見せていただいた。
 まず、直径3センチほどのくぼみ穴が縦に4つ、横に5列、計20個並んだ銅の焼き板を適温に温める。その穴にカステラ生地を少量流し入れ、その上に丁寧に丸めた漉し餡の餡玉を置いていく。
 最後の餡玉を入れ終わったら先頭に戻り、ちょうど生地が焼けてきた饅頭をハリで直角に起こし、生地のかかっていない餡の上に生地をかける。
 これを20個分やり終えると、再び先頭に戻り、饅頭を返して、生地がかかっていない餡玉に生地をかける……。この作業を3回繰り返すと、きれいな真ん丸の松露饅頭が焼き上がる。この間、約5分。
 松露饅頭は、思わず笑みがこぼれるようなほのぼのとした風情の菓子だが、菓子が生まれる5分間は、見ている者ですら息を止めてしまうほど張りつめた時間だ。
 球形の饅頭を、半分に切って断面を見ると餡玉の周囲に、カステラ生地が均一の厚さでついているのがわかる。厳しく繊細な仕事に、この菓子のルーツが家庭料理ではなく、宮廷料理にあったことを思い出した。

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「呼子」。東松浦半島の北に位置する漁港。昔は捕鯨で栄えた町で、近年は江戸時代から続く朝市と、イカの活造りがグルメに人気となっている。

家業として伝統を守る

 大原さんは昭和35年生まれ。製菓学校を卒業後、フランスのコルドンブルーでパティシエの修業に励み、帰国。神戸のレストランの製菓部でさらに腕を磨き、30歳を過ぎてから唐津に戻ってきた。
 贈答菓子として評判のよい「まつら」や「太閤松」、そして季節の生菓子やチーズケーキなどの洋菓子は、大原さんが地元のお客様の声に応えて増やしてきたものだ。
「ただ松露饅頭だけは、一つのお菓子として完結しているので、これをアレンジした商品を出すといった考えはありません。その時に手に入る最高の材料を入手して、あとは饅頭を焼くだけです。
 この店は、企業ではなく、家業。先代から引き継いだ松露饅頭という素晴らしい菓子を、家族みんなで守り、次の世代に伝えていく、それが私の役目だと思っています」
 祭りに湧く海の城下町に、真ん丸の、めでたい銘菓がある。

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「名護屋城跡」。秀吉が朝鮮出兵を企てた「文禄・慶長の役」の際、国内の拠点として築城。全国から20万人を超える武士や町人が集まっていた。


大原老舗 Ohara roho

佐賀県唐津市本町1513―17 ?0955(73)3181

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「 この店は、家業。 家に伝わってきたものを、 家の者で守り伝えて いくだけです」

大原潤一
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