ホーム > 菓子街道を歩く 奥州 No.199
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正法寺(しょうぼうじ)。1348年開創。日本一の茅葺屋根をのせた本堂(法堂)は間口約30m、奥行き21m、高さ26m。文化8年(1811)、伊達家により再建された。惣門、庫裏とともに国指定重要文化財。 |
東京駅から3時間弱。東北新幹線水沢江刺駅の周りには広々とした田園風景が広がっていた。
水沢江刺駅は、昭和60年(1985)に自治体や地域住民が当時の国鉄に請願して開設された駅で、総工費35億円のほとんどを地域の人々が出資したのだという。駅名にある「水沢」と「江刺」は、ともに平成18年(2006)に5つの市町村が合併して誕生した奥州市のもとの2つの市の名だ。
水沢は交通の要衝で、“みちのくの小京都”とも称された商業の街。黒石地区にある「正法寺」は、永平寺、総持寺に連なる曹洞宗第三の本山といわれる古刹で、日本一の茅葺屋根が圧巻の本堂などが国の重要文化財に指定されている。
一方、江刺は江戸時代に仙台藩の北辺の要害として栄えた地で、さらに遡れば鎌倉時代にはすでに山城の岩谷堂城が築かれていた。
奥州藤原氏初代・清衡生誕の地でもあり、岩谷堂城のすぐ近くには古代から中世にかけての東北文化を体験できる「えさし藤原の郷」がある。大河ドラマや映画などのロケ地としてもよく使われる人気の観光スポットだ。
水沢江刺駅から車で数分のところに、岩手県を代表する銘菓「岩谷堂羊羹」で知られる回進堂がある。広い駐車場には観光バスが何台も停まれるようになっていて、店舗の2階には添乗員用の休憩室も設けられている。
「田んぼの真ん中のような場所に本店と工場をつくったのは、地域の人たちの生活に配慮してのことでしたが、水沢江刺駅を発着する新幹線の車内から、『岩谷堂羊羹』の看板がよく見えるんです」
回進堂の3代目当主、菊地清さん(昭和30年生まれ)が、駅から出たばかりの、ゆっくりと速度を上げていく新幹線の雄姿を眺めて顔をほころばせた。
岩谷堂羊羹の始まりは17世紀後期の延宝年間で、三百有余年の歴史がある。その時代から数えると菊地さんは12代目になるが、回進堂では、饅頭から飴まで何でも作っていた店を、昭和2年(1927)に羊羹に特化した菓子屋とした菊池さんの祖父を初代としている。この初代の英断が当たった。
その祖父の跡を継いだ父の菊池寛さんは、皆が歩いている時代に自転車を買い、皆が自転車に乗り始めるとオートバイを買い、皆がオートバイに乗り始めた頃には自動車に乗っていたという先見性をもった人で、店を継ぐとまたたく間に販路を拡大していった。お得意様は全国に1200軒。ハワイにまで羊羹を売りに行ったそうだ。
そして菊地さんはというと、高校受験失敗を機に、いずれ店を継ぐと決めて15歳で東京の製菓学校へ。卒業後も東京の菓子屋で修業を続けていたところ、「販路を広げ過ぎて、羊羹作りが間に合わない」という父からのSOSが届いた。この時、30歳。
帰郷すると、店の全権を任せてもらえるなら跡を継ぐと談判。約束を取り付けると、すぐに経営改革に乗り出し、販路を整理。2年後には新工場を建設。さらにその後、材料保管のための100トン冷蔵庫も設置して、経営を盤石なものとした。いま、回進堂は、人口3万4千の町にあって、年間7百万本もの羊羹を製造している。
岩谷堂羊羹は、普通では焦がしてしまうほどの強火で煉り上げて作られている。
「ですから、うちでは羊羹を煉ることを“焦がす”という言い方をします。実際に焦がしてはいけませんが、そのくらい水分を飛ばして仕上げます。日本一、水分がない羊羹。だから、よく歯にくっつくと言われます」
代表格は昔ながらの製法と味を現代に伝える「本煉」と、波照間島産の黒糖を使った「黒煉」の2つ。かつて「本煉」は鋳物の鍋で煉っていたので、鉄分が出て真っ黒な色をしていたが、銅鍋に代わると黒くならなくなったため、創製当時の色を伝えるために黒糖を使った「黒煉」を作ったのだそうだ。
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えさし藤原の郷。ここをロケ地に、歴代の大河ドラマからヒーロー物まで多くの作品が生まれている。馬の産地だけに、戦国の合戦シーンなども得意中の得意。 | 天台宗の古刹・黒石寺(こくせきじ)は、藤原基衡が寄進した仏像など貴重な文化財を所蔵。毎年2月に開催される「蘇民祭」は、夜半から早暁にかけて行われる炎の裸祭りとして知られる。 |
それにしてもなぜ、奥州の地で「羊羹」なのか。その答えは、この地にあると菊地さんは言う。
「江刺はアイヌの言葉で“恵まれた土地”を意味するそうです。その名の通り、ここには北上川がつくった肥沃な大地があります。総面積は東京都のおよそ2分の1と広大で、冬は冷え込みますが雪は少なく、日照時間の長さは日本有数です。ですから、小豆がとれ、昔はビートで砂糖もつくっていました。冬には寒冷な気候を生かして寒天作りも。原料の海藻は北上川の舟が運び、寒天を作る技術は正法寺の禅僧が教えたことでしょう。つまり、いい羊羹をつくる材料と技術が、すべてここにあったのです。」
今も、地元の契約農家3百軒が小豆を育て、収穫すると回進堂にトラックに満載して届けにくる。
「その農家さんも、自分の畑の小豆だからこの店の羊羹はうまいんだと言ってお客さんになってくれています。こうしたドラマが、信頼と、うちの羊羹の味わいを創っているのだと思います」
菊地さんは、1年の半分は地元を離れ、全国の顧客に会いに行く旅の空の下にいる。材料の産地へもこまめに顔を出し、毎年1月は波照間島のサトウキビ畑を飛び回っているそうだ。羊羹のルーツを訪ねる中国・中央アジアへの旅も十数年前から続けている。
奥州には、義経が生きて大陸へ渡り、モンゴル帝国を創ったチンギス・ハンになったという伝説があるが、羊羹はその昔、大陸から日本に伝わり、羊肉のスープから小豆の菓子へと姿を変えた。この地には、志大きなロマンの話がよく似合う。
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岩手県奥州市江刺区愛宕字力石211 0197(35)2636
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「この地で三百年育てられました。
その恩返しの意味でも、
地元の素材を使い、人を雇用し、
この菓子の味を変えず
守っていきたいと思っています」