日本の文化−四季のうつろい(六)

ホーム > 日本の文化−四季のうつろい(六)紅葉 熊倉功夫 No.178

紅葉 熊倉功夫

紅葉狩  秋といえば紅葉狩。春の花見と相並ぶ日本人の二大野外イベントです。万葉集の時代から、紅葉の美しさを愛してきた日本人ですから、詩歌、小説の中に紅葉を探したら、それこそ枚挙にいとまがありません。数ある和歌の中で一首とあえて言うなら、紅葉狩の晴れがましさを伝えるこの歌が私は好きです。

  もみぢ葉をわけつゝ行けば錦着て
     家に帰ると人や見るらむ 
(後撰集 巻七)

 実際に紅葉をつけて家に帰るわけではありません。でも、錦秋の美しさに心まで染められ高揚した思いのほどをよく表現しているではありませんか。
 紅葉は絵画にも染織や漆工の工芸品にも最も親しいテーマで、国宝にも指定されている狩野元信の「高尾観楓図屏風」は、桃山時代の野外ピクニックの様子をよく描いています。
 というわけで、日本人がこよなく愛する紅葉の文化なのですが、今回はちょっと違った視点で綴ってみたいと思います。
 突然、極私的話題ですみません。紅葉というと、一つ忘れられないシーンがあります。中学生の時の国語の教科書に載っていた「修学院の秋」という文章です*。半世紀以上前の記憶ですから、タイトルのほかはほとんど何も確かなことは覚えていないのですが、アメリカ人の親子が修学院を訪ねた話であったと思います。アメリカ人の少年は庭も建物も全く興味がありません。退屈極まりない日本旅行に不満たらたら(多分そんな設定でした)。ところが修学院の園路の途中で、一枚の真っ赤な紅葉が白砂の上に落ちているのを拾います。その瞬間、少年はあまりの美しさに息をのみ、今まで全く面白くなかった周囲の景色が、にわかに色彩を帯びてきます。母親は息子のその姿を見て、来てよかったと息子に語りかける、といったシーンがあったと頭の片隅に記憶が残っているのです。
 なぜ、この文章だけを覚えているのか(他の教材はほとんど記憶らしいものがないのに)、我ながらおかしいと思います。しかし文章というより、アメリカの少年が一枚の紅葉を手にしているイメージだけが、タイトルと一緒に残りました。まだ修学院も見たことはなく、アメリカの少年も身近にいたわけではなかったのですが、たった一枚の紅葉の葉が、いやたった一枚であればこそ伝えられるものの大きさに感動したのかもしれません。
 アメリカにも紅葉はあります。メイン州で見た真っ赤な広葉樹の紅葉は見事でした。眼下に青い海を見ながら紅一色に染められた山裾をドライブした思い出も忘れ難いのですが、何か日本の紅葉と違うのです。北京郊外の香山の紅葉も三十年ほど前に訪ねたことがありますが、清の乾隆帝ゆかりの名所も何か足りないと思いました。何が違うのか。どうやら日本人は目に見える紅葉だけを見ているのではないのかもしれません。

秋の干菓子 茶の湯の古典に『南方録』という千利休を主人公とする文学的な伝書があります。その一節に、藤原定家の名歌「見わたせば花も紅葉もなかりけり、浦のとまやの秋の夕暮」を引用して、こんなことが語られています。華やかな錦なす紅葉も、爛漫と咲き誇る桜も、目を楽しませるものは一切ありません。ただ海岸には舟を引き込んでおく低い粗末な草葺きの小屋が一棟、淋しげに残されているだけ。いわば無一物の世界です。この境地がわびです。
 しかし、と『南方録』は話を継ぎます。誰がこのわびしい風景に心引かれるのか。それは、花や紅葉を見尽くして、その果てにあるものに気付いた人である、というのです。花や紅葉を知らない人に、初めから浦のとまやの秋の夕暮の境地は味わえない、といいます。

山路   
日本人であれば、誰もが花や紅葉の美しさを目にするでしょう。しかし花は散り、紅葉は朽ちることも見ています。花が散り、紅葉が朽ちることを知ればこそ、その美しさをいとおしく感じるところに日本人の感性がありましょう。
 もっと極端なことを利休は言っています。茶の湯の庭(露地)の風情を尋ねられて、

  樫の葉のもみぢぬからに散りつもる
          奥山寺の道のさびしさ
 (慈円)

という歌を例にして、かくありたいと言いました。樫の葉は紅葉しません。朽ちた葉は見所もないままに地上に降り積もります。その樫の葉をガサガサと踏みしめるにつけても淋しさがつのります。しかし心はどうでしょう。心の中には花も紅葉もいっぱいに詰まっていて、充実しているのではないでしょうか。すべてを捨てきったときにあふれてくる思いによって、心は満たされている、と利休は言いたかったように私には思えます。
 修学院の庭で見つけた一枚の紅葉。それも大方は紅葉が散ったあとの名残であったかもしれません。しかしたった一枚残された紅葉に美を見つけたアメリカの少年の感性は、利休に劣らぬものがあったのではありますまいか。
 一方に、即物的にズバリと描き出す方法もありましょう。これでもかと重ね合わせて表現するのも一つの方法です。しかし、捨てて、さらに捨てて、これ以上捨てようのないところに、真なるものを伝える方法もあると古人は教えてきたように思えます。

■菓子製作:菊岡洋之(本家菊屋/奈良県大和郡山市)

熊倉功夫

1943 年、東京生まれ。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、(財)林原美術館館長、静岡文化芸術大学学長。茶道史、料理文化史を中心に幅広く日本文化を研究。主な著書に『日本料理の歴史』(吉川弘文館)、『文化としてのマナー』(岩波書店)、『近代数寄者の茶の湯』(河原書店)、『茶の湯の歴史――千利休まで』(朝日新聞社)、『小堀遠州茶友録』(中央公論新社)、『後水尾天皇』(中央公論新社)ほか多数。