大和郡山市は、一度訪ねて、忘れ難い町である。市街地の小高い場所に、木立ちに囲まれて建つ豊臣秀長の墓・大納言塚には、えもいわれぬ風格があった。古い町並みも至るところに残っている。江戸時代は柳沢氏の城下となったが、この町は、豊臣秀吉の弟で桃山時代にここを治めた人格すぐれた名将、秀長の思い出を大切にしていた。
大和郡山の名物といえば、日本一といわれた金魚・錦鯉の養殖、秀長が創始したといわれる茶陶・赤膚焼、それに「御城之口餅」である。
「御城之口餅」は、そもそも、秀長の城を太閤秀吉が訪ねたとき、菊屋治兵衛の献上した菓子が太閤の御意に叶い、「鶯餅」の名を賜ったものであるという。それがお城の入り口で売られたところから、いつの間にか城之口餅と呼ばれるようになった。以来、現当主の菊屋英壽まで25代にわたって作り続けられている。
その「御城之口餅」の20個入りの箱を前に、さすがと思った。小さな箱をきっちりと包んでいる包装紙は、渋いベージュの地に郡山城を描いた古版画をグレーで刷ったもの。包装した上に、金色がかった細い鶯色のリボンを十字にかけてあるのも、好もしい。大和の小京都のみやげとして、いかにもふさわしい風情である。
包装を解いてみると、横13センチ余り、縦16センチあまりの箱は、これまた渋いブルーグレーの地に、渇筆で描いた菊の絵を絶妙のバランスで反転白抜きにした、秀逸なデザインであった。菊の花は菊屋の屋号にちなむこと、いうまでもあるまい。箱の蓋を取ると、一つずつ入る容器が仕込んであって、黄粉の色も鮮やかに20個の「御城之口餅」がきれいに並んでいた。
ひと口で食べられる大きさ。つぶし餡を薄い求肥餅で包み、黄粉をまぶしているが、口のなかで材料がぜんぶ溶け合い、なにか懐かしい、餅菓子の原点を思わせる味がする。
これを太閤が「鶯餅」といったなら、まさに至言だ。姿だけではない、味がどこかうぐいすなのである。
文/大森 周
写真/太田耕治
奈良県大和郡山市柳1―11
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