ホーム > 資料に見る和菓子 第六回 No.202
看板娘、看板商品という言葉があるように、看板は店の顔でしょう。社会が安定した江戸時代には、商業が盛んになり、広告・宣伝の分野が伸長。美しい彩色摺りの引札(第2回参照)が配られ、店先には人目を引く看板が飾られました。
明治18年(1885)刊『古今百風吾妻余波』所収の「東都看 版譜」は、東京の街中にある看板を描いたもので、8ページにわたり200種類以上の図版が掲載されています。江戸時代から使われているものだけでなく、玉突き(ビリヤード)や西洋料理といった新たな商売に関するものも見え、江戸から明治への大きな時代の変化を感じさせます。
今回は、菓子に注目していくつかご紹介しましょう。①の「うづ飴」。渦巻き模様は飴売りのトレードマークで、飴売りに扮した役者の着物の柄にも使われています(A)。③は菓子を入れて運搬するための容器、井籠を模した菓子屋の看板です。江戸時代後期の風俗を記した『守貞謾稿』によると、このタイプの看板は路上に置かれるもので、京都や大坂にはなく、江戸でのみ見られたといいます。
さて、とげとげした⑨は、いったい何の看板でしょう? 大森貝塚の発見で有名な動物学者エドワード・モースが日本滞在中に記した日記に、これとよく似た看板のスケッチが見えます。そして次のような記述も。
「奇妙な格好の看板である。これは丸く、厚い紙で出来ていて白く塗ってあり、直径一フィート半程で、菓子屋が一様に出す看板なのである。この看板は日本の球糖菓を誇張した形を示している」(『日本 その日その日』、明治10年9月30日の日記より)。1.5フィート、つまり約46pもの金平糖の模型とはずいぶん迫力があったことでしょう。
モースは日本人の生活風俗に強い関心を抱いていましたが、なかでも看板には興味を引かれたようで、いろいろな図柄を絵に残しているほか、なんと数百点の実物を本国アメリカに持ち帰りました。それらは今もマサチューセッツ州のピーボディ・エセックス博物館に保管されています。
⑦のおたふく豆や⑧の浅草名物・雷おこしの看板は文字の一部を絵に置き換えたもの。お福さんのニコニコした顔がお客さんをよく呼び込んだことでしょう。江戸時代の黄表紙でも、雷おこしの店の左端にちゃんと雷様の看板が下がっています(B)。こちらの雷様はずいぶん強そうですね。
軒に吊るすタイプや紙貼りの行灯形。布製ののぼりもあり、実に多種多様な看板。「目立つ」「伝える」ために工夫された造形は遊び心があって面白く、今日でも十分通用するものではないでしょうか。
所 加奈代(虎屋文庫 研究主任)
昭和48年(1973)に創設された、株式会社虎屋の資料室。
虎屋歴代の古文書や古器物を収蔵するほか、和菓子に関する資料収集、調査研究を行い、機関誌『和菓子』の発行や展示の開催を通して、和菓子情報を発信しています(現在、展示会は休止中)。資料の閲覧機能はありませんが、お客様からのご質問にはできるだけお応えしています。HPで歴史上の人物と和菓子のコラムを連載中。
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