和菓子探検

ホーム > 和菓子探検(3) 殿様も楽しみにした嘉定菓子 No.215

殿様も楽しみにした嘉定菓子

 かつて、旧暦の六月十六日に嘉定(嘉祥)という行事がありました。旧暦の六月といえば、暑さが本格化する時期。由来は諸説ありますが、病にかからぬよう、菓子などを食べて厄除けし、福が訪れることを願うようになったといいます。
 もっとも盛んだったのは江戸時代で、幕府や宮中のほか、民間でも行われました。今回は、とりわけ盛大だった幕府の嘉定に注目しましょう。

楊洲周延「千代田之御表 六月十六日嘉祥ノ図」(1897) 以下、史料はすべて虎屋文庫蔵

(拡大図)左から羊羹、寄水、大饅頭。


 江戸幕府の嘉定菓子は八種類。饅頭や羊羹(蒸羊羹)のほか、阿古屋貝に見立てた「あこや」、現在のそぼろ餡をつけたものとは異なる、球形の「きんとん」、ねじった形の新粉餅「寄水」、鶉に見立てた餅菓子「鶉焼」、そして「のし」と「麩」です。のしは、鮑を薄く剥いで伸ばして干した熨斗鮑のこと。また麩は、煮染めたものだったようです。意外に思われるかもしれませんが、のしや麩は、古くは茶会の菓子にも使われていました。

後ろを向いている人物の傍にある白い束は、 冷麦(素麵)。
右側には酒も用意されている。

 嘉定菓子は、種類別に片木盆に載せられて江戸城の大広間に並べられ、登城した大名や旗本は順番に進み出てそのうちの一膳を頂戴しました。
 行事の詳細を記した「嘉定私記」(一八一八序)には、「饅頭三ツ盛百九拾六膳 惣数五百八拾八」というように、膳の数と菓子の個数が載っています。八種を合計すると一六一二膳となり、総数は二万個以上。さぞ壮観だったことでしょう。
 また、同史料には並べ方も出ています。「ア、マ、キ、ヤ」「ウ、ノ、ヨ、フ」と書かれているのは、それぞれの菓子の頭文字です。「ア」は「あこや」、「ヤ」は「やうかん」というように、同じものが続かないよう考慮されていることがわかります。
 しかし菓子の並べ方が決まっていたにも関わらず、下賜される菓子をめぐって、こんな話も伝えられています。天保年間(一八三〇〜四四)、大名らが我先に好みの菓子を取ろうとするようになったため、ある年、特に見苦しい振舞いをした者を老中水野忠邦が叱責したとのことです(*1)。何の菓子がもらえるか分からないなか、家格の高い大名たちが欲しいものに夢中で我を忘れてしまうとは、年に一度の機会を楽しみにする人間味が感じられ、ほほえましく思えますね。

「嘉定私記」(1818序)

(拡大図)

 楊洲周延による「千代田之御表六月十六日嘉祥ノ図」を見てみましょう。手前に羊羹や寄水などが盛られた膳、中央には菓子を手にする人物が描かれています。これは明治時代の作品で、実際とは多少異なる部分があるといいますが、先のような話を知ると、現実でも同じように、欲しい膳を見つめる大名や旗本がいたのかもしれない、と想像が膨らみます。
 嘉定は明治時代以後廃れてしまいますが、昭和五十四年(一九七九)に、全国和菓子協会によって、「和菓子の日」としてよみがえりました。この日にちなんだ特別な菓子を販売する店もあります。
 今年は食べそびれてしまったという方は、七月十四日が旧暦の六月十六日にあたるので、この日にお好きな和菓子を食べて厄除招福を願ってみてはいかがでしょうか。

幕府の嘉定菓子例(再現)
上から時計回りにきんとん、羊羹、あこや、大鶉焼、
寄水、大饅頭(中央)。 このほか、のしと麩もあった。

楊洲周延「江戸錦 嘉祥」(1903)
嘉定の菓子は、同日に奥女中も賜った。いたずらで菓子を取り上げる御坊主と、慌てる女中の様子が描かれている。

*1 風俗画報』第六号(明治二十二年七月十日号)。


参考
「甘いもの好き 殿様と和菓子」展小冊子(虎屋、二〇〇二年)、
青木直己『図説 和菓子の歴史』(筑摩書房、二〇一七年)、
相田文三「江戸幕府嘉定儀礼の『着座』 について」(『和菓子』第二十五号、虎屋、二〇一八年)。

小野 未稀(虎屋文庫 研究主任)



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