乳(にゅう)や乳製品を飲んだり食べたりすることは、動物たちが自分の子どものために作ったものを横取りするのですから、人間の大罪の一つだという人もいます。しかし、手軽で、おいしく、栄養に富むこの食物の魅力には昔の人も抗しがたかったようで、乳の利用は太古に始まりました。紀元前2千年頃のバビロニアの壁面には、牛の搾乳の様子が描かれているということです。現在では、乳は世界でも最も広く、かつ多量に消費される食材といわれるほどになりました。
乳を利用するほとんどの国には、なんらかの乳製品が発達しています。乳は放置したり、温めたり、発酵させたり、かき回したりと、少し手を加えることによって分離したり凝固したりするので、その変化を観察して、腐りやすい乳をおいしく、かつ保存できるよう工夫した知恵の結晶といえるでしょう。ですから、その加工法も千変万化し、専門の本には世界の80種類以上の乳製品の名が記載されています。私たちがよく知っているバターやチーズやクリームなども、その一部にすぎないわけです。
乳を静置しておくと、上面に浮き上がってくる脂肪層がクリームで、それを袋に入れて揺さぶると脂肪球がくっつき合ってバターができます。バターについての一番古い記述は紀元前千数百年頃のインドの聖典ベーダにあるということです。
一方、仏典には牛の乳から酪(らく)、酥(そ)、醍醐(だいご)などを作ることが書いてあります。日本では京都に薬師如来を本尊とする醍醐寺があります。醍醐は聖なる食物であると同時に大変おいしいものであったようで、こんにちも「スポーツの醍醐味」とか「芸術の醍醐味」などと使われています。
また、チーズの発明については、古代アラビアの商人がヤギの乳を羊の胃袋で作った袋に詰めて旅に出て、夜になって飲もうとすると水が出てきて、底には白いかたまりがあり、食べてみたらおいしかったという伝説が残っています。羊の胃に含まれるレニンという凝乳酵素が働いたのだという現代科学的解釈があります。
ヨーロッパやその周辺では、紀元前からパンがあり、それらは麦の粉と牛乳を炒って粥状にしてから平たく成形して焼いたものだったといわれています。のちに発酵やオーブン焼きなどの技術によってパンが完成されていき、ガトーやガレットなど、のちのケーキ類が 高級パン として発展しました。それらがさらにバター、クリーム、チーズ、ヨーグルトなどによって豊かな味と香りを得て、こんにちの洋菓子類を形作りました。そして明治以後の日本にやってきて、新しい味覚として歓迎されることになります。
今では牛乳や乳製品類は饅頭や煎餅、餅菓子などの和菓子にも試みられて、日本のお菓子の世界に新しい味わいをもたらしています。
食文化研究者。大阪大学理学部化学科卒業、理学博士。ウスター実験生物学研究所(米・マサチューセッツ州)研究員、武庫川女子大学教授、同大学大学院教授を歴任。著書に『味の文化史』(朝日新聞社)、『食の文化史』(中央公論新社)、『パンと麺と日本人』(集英社)、『世界の食文化』(共編/農山漁村文化協会)ほか多数。