正月といえば、お餅がつきもの。わが家のご近所の病院では、今年も餅つき大会が開かれるはずです。昔は、町内のあちこちで餅つきの音が聞こえたものですが、近頃は、まず家で餅をつくことがなくなりました。
いつの頃から正月餅をつくようになったのか、わかりません。しかし、室町時代の連歌師・宗長の日記に「正月餅つく家々、ほこらしきを聞て、大方の旅のやとりもことたりぬ、隣の餅を耳につかせて」とありますのが大永六年(一五二六)のことでした。おそらく室町時代には、正月のための鏡餅など、行事に供える餅をつくことが一般化したと思われます。
子どもの頃、父の田舎の家でも十二月二十七、八日頃でしたか、餅つきがありました。一年中、納屋の片隅にあった臼が持ち出されて、きれいに洗われ、大きな蒸籠に真白なもち米が蒸し上がります。つきたてのお餅に甘い餡をつけて食べたおいしさは、今も忘れられません。のし餅がたくさん作られて近所の衆や親戚に配られます。鏡餅もできます。とても贅沢な気分で家中が満たされました。
正月餅は、いうまでもなく雑煮と鏡餅の習慣に深く関わっています。大事なことは、お餅が丸いこと。関東では雑煮のお餅は切り餅ですが、関西の丸餅が本来の姿でしょう。鏡餅は必ず丸い。丸い姿は心すなわち霊の象徴です。霊は玉でもあります。新しい年の幸せをもたらす歳神が、新玉を分けてくださる。それがお年玉ですから、子どもだけがもらうものではありません。その新玉を形どったのが、お餅です。さあ、これを食べて、この一年を無病息災に過ごそうと祈願いたします。
鏡餅は小正月まで飾っておきますので、固く固くなってしまいます。これに刃物を入れるのははばかられると、打ち欠きます。欠いた餅ですから、かき餅です。焼いてもなかなか固いものですから、食べるのに骨が折れます。よほど歯が丈夫でなければ食べられません。歯という字が齢という漢字に入っているように、年齢を重ねると、まず弱ってくるのが歯です。そこで、歯が丈夫で長寿でありますようにと、わざと固い餅などを食べるのが歯固めの行事です。鏡餅には、そうした思いも加わっているのです。
日本の正月には、お餅が欠かせない。ことに最近は日常、お餅を食べる機会が減りましたので、お餅といえば正月を連想してしまうのですが、戦前の記録などを見ますと、何かと行事の時は餅をついてふるまっています。
そもそも日本を含むアジアの照葉樹林帯(カシ、シイ、クス、ツバキなどの木が中心となる植生の地域)に生活する人々は、もち米が大好きです。中国・雲南に行ってみたら、もち米が常食されているのに驚きました。日本のお餅の起源も非常に古いでしょう。『豊後風土記』に、白鳥が餅に変わる話がありますように、真白いお餅は、とびきり神秘的な食べ物でしたろう。この話はだんだん変形して鎌倉時代の『塵袋』には、豊後国の長者が遊びで弓を射るのに的になるものがない、そこで餅を的にして射ったところ、餅が白鳥に化して飛び去った話になりました。以来、その家は衰えて消えてしまったといいます。食べ物を遊びにすると罰が当たるという教訓でしょう。近年のグルメ番組を見ていると、我々も罰が当たりそうな気がしますが……。
さて、お餅は言うまでもなくお菓子です。餅菓子という言葉がありますし、京都では市井の庶民的なお菓子屋さんのことを餅屋と言います。いつの頃から餅が菓子の意味を持つようになったか判然としませんが、江戸時代初期の笑話集『醒睡笑』には、お餅の話がいくつもあって、腹をすかせた小坊主には、何より魅力的なお菓子でした。当時の餅は甘いものではありません。砂糖がだんだん豊富になる十七、八世紀に、ようやく甘いお菓子としてお餅が主役になりました。
『絵本酒之味』の挿絵では、正月の門松をたてた玄関の前に臼と杵が置かれて、「右や餅、ひだりさかづき、あけの春」という句が記されています。十八世紀になると、下戸を右、上戸を左と表現するようになり、さらに下戸は甘党、上戸は辛党に決めつけるようになったというわけです。しかも、そこへ女性と男性とを振り分けて、下戸―甘党―女性、上戸―辛党―男性
というジェンダーが成立しますが、こんな分類の仕方をするのは日本だけ。古い見方にわずらわされず、お餅(お年玉)とお酒(お神酒)をお正月であればこそ合わせて、大いに楽しもうではありませんか。
■菓子製作:佐藤慎太郎(乃し梅本舗 佐藤屋/山形県山形市)
1943 年、東京生まれ。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、(財)林原美術館館長、静岡文化芸術大学学長。茶道史、料理文化史を中心に幅広く日本文化を研究。主な著書に『日本料理の歴史』(吉川弘文館)、『文化としてのマナー』(岩波書店)、『近代数寄者の茶の湯』(河原書店)、『茶の湯の歴史――千利休まで』(朝日新聞社)、『小堀遠州茶友録』(中央公論新社)、『後水尾天皇』(中央公論新社)ほか多数。